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峰村健司『宿命 習近平闘争秘史』2018

 文春文庫2018年刊(写真は2019年8月。瀋陽に入るときに見つけた発電所?らしき建物群。原子力発電所に思えたが。)。
 一度読みかけて書棚に戻し今一度に読み直した。読んでいて痛烈に意識するのは、峰村さんが言う現場主義(あとがきを参照されたい)というものに、あまり好感をもてないということだ。ただ学者のなかにも現場主義を掲げる人もいてそれが一つのスタイルだということは認めるのだが。本文では突撃レポーターのような取材の様子が繰り返し語られるのだが、読むたびにいつも峰村氏に取材される側の気持ちになり、その記録を読んでいて気持ちが悪くなる。記者特有の現場主義という、ものの言い方や考え方の中に嫌悪感を感じるものがあるということだ。

 それを除けば党人事が決定されるプロセスを論じている序章。裸官(家族や資産を海外に移し国内に一人残る高級官僚のこと)や二奶村(愛人村 ロサンゼルス郊外に高級官僚などの愛人村がうまれている)に迫った第1章。習近平の娘、習明沢と、薄熙來の息子、薄瓜瓜の対照的な留学生活を明らかにした、第2章。胡錦涛と江沢民の壮絶な権力争いを伝える第4章など。いずれも参考にはなる。現場主義により事実を掘り起こすという手法に、なるほどと思わないでもない。終章で峰村さんは、習近平という皇帝を今の中国共産党は必要としているとしながら、実際に必要なことはむしろ権力の分散だとまとめている。
 ただ読んでいて最終的にむなしく感じるのは、峰村さんが、党内パワー・派閥の分析、誰が失脚したといったことの分析に終始しているように見えることだ。そのことが足で集めた取材の結果であることは分かる。そうした個々の事実に興味はなくはないが、中国に関して議論しなくては、知らなくてはいけないのは果たして、政治闘争の詳細なのだろうか?と思わないではない。中国の対日政策が、中国国内の政治的な争いの中で変更されてゆく経緯を描いた第5章。おそらく峰村氏が現場取材の精華とするであろう章に至ってそのことを深く感じる。結果として峰村さんは、政治闘争がすべてという自分の史観を語っているだけなのではないか。

#習近平

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