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南京国民政府期の商業銀行 1927-36

李国勝《浙江興業銀行研究》 上海財經大學出版社2009年, pp.150-152

p.150  蒋介石集団が政権について10年のうちに、中央、中国、交通、農民の官僚資本銀行4行は、全国の金融を独占した。1936年に、彼らは全国の164行銀行の払い込み資本(実収資本)の42%を占め、預金の59%、発行銀行券の78%、純利益44%を占めた。とくに1935年の銀の波乱(白銀風潮)では、上海の民族資本銀行67行のうち閉鎖あるいは業務停止は12行。さらに比較的大きな3行は官僚資本銀行に併合(兼并)された。この年、国民当局はまた「法幣政策」を実施し、発行権を独占した。商業銀行は官僚資本銀行の排撃(排擠)と打撃のもと、業務の発展は大いに制約された。
 この期間、浙江興業銀行は江蘇省の無錫、常熟、蘇州、新浦、浙江の湖州,河南の陝州,信陽に店を開き、安徽省の蚌埠などには分支機構事務所が設けられ、金融網が拡大されたが、その業務の進展はとても緩慢であった。
 1927年以前、浙江興業銀行は上海の商業銀行の中で資力は充実(雄厚的)していた。預金は示されれば常に第一位であった。しかし蒋介石が政権について10年の間、浙江興業銀行の預金の成長速度は”南三行””北四行”の中で最も緩慢だった。その預金は1921~1927年には商業銀行の中で首位であったが、1928~1931年には第4位に、1932~1936年にはさらに第6位に後退した。
 四大家族官僚資本銀行が次第に壮大になったあと、商業銀行が四大家族(官僚資本銀行)にしたがっている程度(附著程度)は、その業務を拡張できるかの重要な要因になった。預かっている(領用)兌換券の多寡がこの点を明らかに説明する。上海銀行は兌換券を発行しないものであるが、大量にp.151  官僚資本銀行発行の兌換券を預かり、1936年には4000万元に達した。1000万元の兌換券を預かると、1年で約40万元の利益を得られた。浙江興業銀行は四大家族との関係は緊密でなかったので、預かり兌換券の数量は1927~1934年の間、終始385万元前後であり、上海銀行と比較するとわずかにその1/8であった。(四大家族官僚資本銀行に)従っている程度の違いが、業務発展に違いが出るのは道理であった。
 経済発展の速度だけみれば、南京国民政府時期(1927~1937年)年平均8%~9%は悪いとはいえない(可謂不俗)。世界経済大危機のなかにあり遭遇していることからすれば、得難い数字であった。しかし国民党の統治が崩壊する要因(坍塌的種子)はすでに埋め込まれていた。原因は制度選択上犯されたいくつかの致命的な誤りにあった。 
 1.経済上、ドイツ、ソ連に学び、清末の失敗した道(覆轍)を再び歩んで、政府と官僚が、鉱工業と銀行を直接間接に統制することを好み(熱衷),国民経済を統制する膨大な官僚経済命脈体系を作り上げたこと。
 2.政治上民主を放棄し、国情が特殊であるとし、国民の素質が低いことを口実に、専制統治の全能政権を始めたこと。
    3.   執政党は自ら先知先覚(先に目覚めたもの)であるとして「訓政」を実行、民衆を教化、政府と私人の空間の境界線を抹殺したこと。あらゆる方法を尽くして(千方百計)民間社会を弱め(削弱)、今世紀初めに次第に発展を始めた各種の公民社団を統制し、独立心のある(独立性)もの(工具)ではなくする。公民の結社の自由をはく奪し、公民に本当の意見を自由に表明させなくしたことで、執政党は牽制の力を失い、腐敗消滅(毀滅)の道に向かった。暴政は人民の反抗(民變)を誘発(激發)し、人民の反抗は社会、政治、経済の全面危機を惹起(激起)した。
 4.  南京国民政府は歴史上前例のない書籍新聞検査制度をはじめ、言論出版の自由を取り消し、世論による監督は無きに等しくとされ(化為烏有),自由な研究討論は厳禁され、言論が犯罪とされ、民衆は声も出せなくなった(噤若寒蟬)。
    国民政府では賄賂は公然化し、腐敗は極まり、政治、軍事、経済、文化教育はすべて失敗した(全面破產)、すべては制度の欠陥に根源がさぐりあたる。経済、社会生活は複雑化し、経済の発展、企業の振興を要求し、経営の権力の下放を要求した。これは社会分業と生産力発展状況の客観(的)要求であり、その原理は企業内部の集権、分権の道理と同じである。この方面において、中国の伝統文化が悪い作用を起こしたと言わないことはできない。伝統文化が公私を分けず、公共空間の思惟方式に欠けていることは、朝廷空p.152  間を広げ、私人空間を圧縮し、公共空間の消失につながった。それゆえリスクが急速に高まり、社会が不安定である基本原因は、声がなくまた急速で結実につながらない成長そのものにある。
 制度保障の方面からみれば、1912年中華民国の成立後、立法、司法、行政の建築設計上は様々な仕組み(框架)が用意されたが、執行において軍閥割拠や内戦のため金融業を発展させる実際の効果は大きく損なわれ、浙江興業銀行の発展もまたこの戦争と割拠の要素に大きく影響された。
 南京政府成立後、一面では北洋政府の手法を継続し、外債の発行により軍事の支出融資を賄った。他面では、政府が中国銀行、交通銀行などに出資(参股)することを通じて、四行二局の国家金融独占システムをはじめることで、政府は当時の金融核心を直接統制した。これは当然、政府がさらに大規模に公債を発行し、資金を集めるうえで便宜(便利)を提供するためであった。ある学者の推計によれば、1927~1936年の間、南京政府が発行した公債は26億元。1927年の公債取引量は2.4億元、(これは)1929年に14億元、1939年に39億元、全公債発行額の3倍以上に達した、公債取引の熱狂(炒)は明らかだった。これは南京政府の信用膨張に重要な支持を与え、同時に深刻な信用危機を潜伏させた。1932年と1936年、南京政府は公債整理を前後して進め、政府債の信用破産を明らかにし、二度にわたり銀行、証券、貨幣市場に及ぶ全面的な現代金融危機を生み出した。これは中国社会の証券、現代銀行、紙幣に対する信用(信心)を根本から瓦解させ、一般庶民(老百姓)を再び銀、銅銭と実物取引の伝統経済に戻らせることになった。法幣政策は短期間貨幣統一を実現、長期間中国の経済発展を妨げてきた貨幣発行権の分散、通貨混乱問題を解決し、貨幣形態も世界とつながった、なおかつ当時、金融市場の銀根はひっ迫していなかったので、国民経済にとり低いレートは輸出を増やすうえで一定の積極作用があった。

新中国建国以前中国金融史

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