見出し画像

朱鎔基 国家経済委員会時代 1979-87

鄭義編著「朱鎔基台上台下」香港文化芸術出版社, 2009年、pp.75-78(写真は2020年2月22日 京都駅天井のトラス構造)
 (1979年)国家経済委員会で朱鎔基は燃動局処長に任命されている。これは局長の下のポスト。ここで全体幹部大会で、処長クラスは皆保身のために一言も発しないところ、後ろの席の朱鎔基は早くも争うように立ちあがって(搶先站起來)、「一発ぶっ放したのである。」ある人は思い出して、朱鎔基という人はまことに「川や山は変わるとも、本来の性質は変わらない(江山易改,本性難移)。」を地で行く人だ。
 ある記憶する人は、分析は明確で(肯),見解は独特、道理があり、会場では騒動が起きたとする。また経済委員会の上層幹部の張經夫,呂東、袁寳華などの人々の関心を集めた。
 間もなく、朱鎔基は国家経済委員会の総合局副局長になり、そのあとまた技術改造局局長に任命された。「金は常に光らねばならない。」当時、人が思い出すところでは、当時の国家経済委員会にあって、朱鎔基と趙維臣は急速に下から上に(昇進した)「最も才能経験のある(最幹練)」の局(長)クラス幹部と見られていたとする。
 趙維臣はのちに経済委員会副主任になった。1990年代初めに朱鎔基が国務院副総理兼国務院生産事務室(辦公室)主任に任命されたとき、趙は副主任であった。のちに趙は中国聯通創立の責任を重ねて受けて、中国聯通の最初の懂事長になった。趙をよく知る人は、趙の脾氣(喜怒哀楽の激しさ)は朱に比べ小さいという。
 経済委員会当時の朱鎔基は、許容出来ない者は立ち去らせた。見てくれだけの者(花架子)、実際を知らず知識がない役人など。その役人が何かに反対しようと、彼(朱鎔基)は提起した、彼はどのような状況を知っているのかと。そして下級が知っているべきことを知らないと、彼(朱鎔基)はとても不機嫌になり、批判した。
 表現力(才華)、能力、認識の高さ(品質)のすべてで、朱鎔基は経済委員会幹部(領導)から一致した高い評価を得た。1983年に朱鎔基は経済委員会委員、副主任(副部長級)に任ぜられた。
 このとき朱鎔基はすでに55歳だった。李鋭の記憶では「私(李鋭)は1982年に中央組織部に行った。朱鎔基は1983年に副主任だった。私は中央組織部のバック業務であり、中央の要求により幹部の「四化」(現代化つまり若返りだろう 福光)を進めていた。彼の年齢からすれば、次代の幹部(後備幹部)に入るのは不可能だった。」
 李鋭が言う所では、当時1000人が(次代の幹部として)精査された。その年齢の標準は40歳余りであった。朱鎔基は確かに(そのような)若い幹部とはいえない。であれば彼の昇進は、経済委員会幹部が彼を賞賛し、積極的に彼を推薦したからこそ、可能だった。(中略)
  ある中共の組織工作をよく知る同志が述べるところでは、朱鎔基が以前「右派」だったもので最初に任命された幹部だとはっきり断定(肯定)はできないけれど、55万の「右派」のなかで最初に幹部に任命された一人だということは断定できる。
 幹部若返り(四化)の基準(標準)に照らして、もし50歳の朱鎔基が高級幹部(高層)に入るのができす、さらに数年経過していたら、かれは後日時運に恵まれなかった(時運不濟)と嘆くしかなかった。しかし党内の正直な人々と原則を堅持する同志の努力で、朱鎔基は副主任に昇任、さらに高い指導者(高領導人)(になることが)視野に入ってきた。
 (1987年に朱鎔基は上海市委員会副書記に中央により決定される。任命は1987年12月。翌年の九届人代会議では江沢民に代わり上海市長に任命される。このとき朱鎔基は中央委員会候補委員でもある。1989年六四事件。1991年4月に西欧各国を歴訪。訪問途中で中央は国務院副総理に任命。1992年春 南巡講話。1994年銀行改革。1998年3月、総理に就任。99年4月米国訪問。) 

#朱鎔基

main page: https://note.mu/hiroshifukumitsu  マガジン数は20。「マガジン」に入り「もっと見る」をクリック。mail : fukumitu アットマークseijo.ac.jp