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鄧子恢1961年出版的回顧録 福建省での粛清事件(1930-31)について

 1961年に出版された回顧録の中の一文であり、1930-1931年に生じた福建省(閩西)の中国共産党内にで起きた社会民主党狩りという、反対派粛清(肅反)事件を取り上げている。この事件は江西で起きたAB団事件とともに、多くの冤罪を生んだ。殺された被害者は6000人以上とされている。そもそも社会民主党もAB団も存在自体が疑わしいとされる。リンチや威嚇により自供を迫り、自供すれば直ちに処刑した。鄧子恢はこれを批判している。1961年にこの問題に触れ事実を公にしたことは、勇気を示しているように思えるが、このような人命の浪費に思える大量殺戮の問題が、中国共産党に極めて多いことは事実だ。
 1961年出版的龍岩人民革命鬥爭回憶錄  載   鄧子恢自述    人民出版社2007年11月  49-78, esp.78 (写真は礫川公園 2020年5月2日)

「 1930年の冬、閩西の党は極左的な反対派粛清(肅反 スーファン)政策を執行した。当時、反対派粛清は正しいことであったが、反対派粛清中心論や方法として「逼供信(ビーコンシン 自供を強要してすぐに処刑すること)」を用いたことは誤っていたし、投機分子林一株を閩西肅反委員会主席に取り立てたのは、用いた人が正しくなかった。林一株は自分の地位を強固にしようと、大量に捕まえ大量に殺す政策を決めて動かないことが都合がよく、日ごろ彼に意見があった幹部、とらえどころのない話が好きな戦士、群衆の積極分子を、みな社会民主党員にしたてて、捕まえ殺した。こうして殺された人の中で一体反革命分子はどれだけいただろうか?現在完全に理解されているところでは、その中で反革命分子はごく少数、大多数は良い人で革命同志であった。それが誤って殺されたのである。これは左傾路線が龍岩革命にもたらした最大の災難であり、龍岩の革命で初めて量を測れないほどの損失である。この誤った肅反政策は1931年春になって毛沢東同志の知るところとなり、郭滴人同志が派遣され、林一株が逮捕されてようやく停止された。郭滴人同志は当時、捕まっていた幹部を釈放したが、殺害されたものは生き返ることはできないし、(その後)敵が進攻したので、人々にこの誤りを宣伝する機会はなく、誤って殺された同志に対しなお名誉回復されておらず、その家族は裏切り者(反屬)の帽子をかぶらされたままとなった。このため、裏切り者とされた人たちは声もなく涙をのみ、幹部もすべての人が危険であり、群衆も不安におびえた。まさにこの時国民党は龍岩を攻め、我が部隊は肅反のあと、兵に闘志が全くなく敗退を続けた」と続けている。

#鄧子恢     #肅反      #礫川公園

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