マガジンのカバー画像

胡耀邦 (1915-1989)

45
「胡耀邦文選」人民出版社, 2015 ほか
運営しているクリエイター

#鄧小平

胡耀邦の失脚と趙紫陽

                            福光 寛  胡耀邦の失脚は1987年1月に生じた。これに趙紫陽がどうかかわっていたかについては議論がある。  1980年から続いた胡耀邦を総書記、趙紫陽を国務院総理とする体制は1987年に入って開かれた中央政治局が開催した民主生活会なる会合(1月10日から15日)で胡耀邦批判が噴出したことで終焉を迎えた(直接的には1986年末に全国各地で起きた学生運動の責任問題。胡耀邦が資産階級自由化に反対するという旗幟が不鮮明であった

胡耀邦 改革への反発から辞職 1983-87

滿妹《回憶父親胡耀邦》天地圖書2016年,731-769  胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-1989)は1983年1月の全国思想工作会議において、全面改革を訴えた。つまり経済改革だけでなく、政治改革に踏み込もうとした。  しかし実際にすすめようとすると反発が生まれた。1983年2月、広東深圳を視察した時、幹部の選抜管理方法として、選挙方式に支持を表明した。沿海部の都市、汕頭、厦門などでは実施されていた。1984年陝西省で委員会の書記を選挙で選ぶ方式が決定(通過)すると、鄧

魏京生の逮捕 1979/03/29

 北京西単のバスの停車場のそば。200メートルほどの壁に、壁新聞が張られるようになったのは1978年春頃からだとされる。その中で魏京生が1978年12月5日に張り出した「五番目の現代化」と題した壁新聞は広く注目された。そこで「われわれを天下の主人とすること、我々を独裁統治者が野心を拡張する現代化の道具とせず、我々が人民生活を現代化できること、人民の民主、自由と幸福が、現代化を実現する唯一の目的であること、この第五の現代化がなければ、すべての現代化は新たなたわごとに過ぎない。」

1986年12月の学生運動について

 1986年末の学生運動についての正確な実態は公表されていない。しかし『中国共産党的九十年』中共党史出版2016年6月p.738は、つぎのようにその 影響として総書記の交代を伝える。「党の十二届六中全会決議(訳注 2016年9月28日)が強調した精神文明建設中のマルクス主義の指導地位を強め、資産階級自由化に反対するとの内容は、すぐに真剣な力で貫徹されなかった。1986年末、多くの(不少的)都市で学生運動(学潮)が発生し拡がった。1987年1月16日、中央政治局は拡大会議を開き

鄧小平 党の十二届六中全会での講話 1986年9月28日

『鄧小平文選第三巻』人民出版社1993年11月pp.181-182より全訳。中共十二届六中全会における「中共中央の社会主義精神文明指導方針に関する決議」(草案)討論時の講話。 p.182 資産階級自由化に反対することは、私が最も多く話していることで、かつ私が最も堅持していることである。なぜか?第一に、群衆の中、若い人の間に、一種の思想の流行(思潮)がある。自由化はまさに、この種の思想の流行である。第二に更にあすこに助けるもの(敲边鼓的)がいる。たとえば一部の香港の議論、台湾

鄧小平 資産階級自由化に旗幟鮮明に反対せよ(1986年12月30日)

『鄧小平文選第三巻』人民出版社1993年12月pp.194-197より全訳。  学生が騒いだこと(闹事 原注73:1986年12月中下旬、資産階級自由化の思潮が氾濫する背景のもと、合肥、北京などの一部の高等院校の少数の学生は各種の情緒理由から街でデモをした。ごく少数の観念に取りつかれた人々が共産党の指導に反対し、社会主義道路に反対する扇動を行い、ある地方では交通秩序が乱されたり、社会治安の規定に違反する情況が生じた。その後、関係方面と学校当局の教育と指導により、事件は次第に

胡耀邦「中国にとり未来の銀のスプーンは何か」1986年6月11日

认识中国未来动向的银匙(1986年6月11日)载《胡耀邦文选》人民出版社2015年11月pp.646-651 英国の王室国際問題研究所での講演記録。 p.646 今日は皆さまのこの国際的な名誉と権威を享有されている国際問題研究機構を訪れることができ、傑出した国際問題の専門家そして学者の皆様と会見できますことを大変光栄に又嬉しく存じます。  (中略)私は皆さまに、本世紀から次の世紀までの中国の基本国策を二つの言葉にまとめることが出来ると、お伝えしたく思います。一つは改革開放

Hu Yaobang 胡耀邦 1915-1989

胡耀邦 Britannica Kids  中国の指導者鄧小平の援護者protegeである胡耀邦は1980年代に中国共産党の総書記を務めた。中国でかなり自由主義的な(more liberal)指導者のひとりである彼は、政治的経済的改革を刺激し、また学生指導者に寛容さ(leniency)を見せたことで、1987年に不名誉な形で(in disgrace)辞職させられた。1989年の彼の死は、幾つかの都市、とくに有名なのは北京の天安門広場において、改革を求める集団示威活動の引き金を

Deng Xiaoping 鄧小平 1904-1997

鄧小平 Britannica Kids  1960年代の文化革命の間、中国共産党政府は前副首相の鄧小平に山高帽を被らせて首都を歩かせて、公衆の前で辱めた。しかし毛沢東の死(1976)後、彼は中国の最高paramount指導者になった。鄧小平は、共産主義の厳格なイデオロギーに抵抗して、自由企業の要素を導入したことで、安定と経済成長の回復に貢献した改革者として賞賛された。しかし、1989年半ばに、純粋に民主主義の抗議者たちに軍事的弾圧crackdownを命じたことで、彼の国際的

胡耀邦 軍政治委員として転戦(1946/7~1949/12)。四川省川北で臨時工作委員会書記に就任。

胡耀邦伝 第1巻 人民出版社2005年 98-172  陳利明 胡耀邦上巻 修訂版 人民日報出版社2015 95-156  満妹 回憶父親胡耀邦上巻 天地図書2016 110-162 胡耀邦は延安をはなれたあと(1945年11月)、一時、肝炎を発病して、入院治療をよぎなくされた。そのあと1946年7月に職場に復帰している。ポストは、軍隊の中で政治委員というポストである。その後、行政職への移動は後述するように1949年12月。その間の3年余り各地の戦場で軍人と

胡耀邦  科学政策の作成と挫折 1975-77

《“文化大革命”簡史 3版》 中共黨史出版社 ,2006年 中國科學院《胡耀邦在中國科學院》科學出版社,2012年 《胡耀邦(1915-1989)》北京聯合出版公司,2015年 中共中央黨史研究室著《中國共產黨的九十年》中共黨史出版社,2016年   1975年7月17日。鄧小平から華国鋒さらに胡耀邦へ、郭沫若を組長とする一団を率いて、科学院の再建(整頓)し、速やかに科学技術工作を進め、国民経済の後退を食い止めることが指示された。さらに現状を把握して国務院に報告すること

胡耀邦 冤罪を正す 1977-80

 黄峥《刘少奇冤案始末》九州出版社 2012年  陳利明《從紅小鬼到總書記 胡耀邦》人民日報出版社 2015年 《胡耀邦》北京聯合出版公司 2015年 罗平汉《墙上春秋 大字报的兴衰》中共党史出版社 2015年   胡耀邦は1977年12月10日、中央組織部長を拝命する。中央党校副校長のポストはそのまま兼務である(写真は成城大学1号館中庭)。さらに1年後には、中央党校副校長、組織部長のままさらに中央秘書長、中央宣伝部長を兼任している。この中央組織部長として、行った

陳雲 誤りを糺す 1978/11/12

這是陳雲同志在中央工作會議東北組的發言。《陳雲文選 第三卷 第二版》1995年pp.232-235(写真は占春園のそばにて。右手が占春園。左手には放送大学校舎がある。) p.232 中央政治局常任委員会、中央政治局は一致して次のことを主張している、来年から工作の重点を社会主義建設開始に移すと。四つの現代化の実現は全党と全国人民の切迫した願望である。私は中央の意見に完全に同意する。安定団結はまた全党と全国人民の関心事である。幹部と大衆(群衆)が党内に対して、安定団結できる

鄧小平 今世紀中の小康実現 1979/12/06

這是鄧小平同志會見日本首相大平正芳時談話的節錄。《鄧小平文選 第二卷 第二版》人民出版社1994年,pp.237-238  4つの現代化というこの目標は、毛主席、周総理が在世中に確定したものである。いわゆる四つの現代化、(そのためには)中国の貧しく欠乏し遅れた面貌を改めることが必要であり、人々(人民)の生活水準を少しずつ高めるだけでなく、中国をして、国際関係(国際事務)に置いて自身の情況に見合った地位を回復させるすべきであるし、人類に対し、少し多くの貢献をさせるべきである。