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福光 寛 孔子の論語の世界と、孟子ではかなり人生観が違うが、一つの原因は言葉を述べたときの孔子、孟子それぞれの人生の年代や、そのとき社会から受けていた処遇など環境の違いにあるのではないか。孔子の言葉はおそらく孔子が晩年のもの。60代から70代だろうか。その言葉からは孔子の不遇が伺われ、晩年に至り、処世について、ポストをめぐる争いから少し距離を置いた、やや達観した心境が伺える。(写真は孟子像 立命館大学朱雀キャンパスに
福光 寛 『中庸』の以下のフレーズは学問への姿勢を言っているように読める(写真は湯島聖堂にある孔子像 2020年2月24日)。 先生(孔子)はいう。学ぶことが好きなものは知に近い、努力して学ぶものは仁に近い、(知らないことを)恥と知るものは勇気がある。この3点を知るものは、努力して自身の徳を高めることを知っている。徳を高めることを知った人は、すなわち人を治めることを知る。人を治めることを知った人は、天下国家を治める
少し前のことだが、道徳に属することは、小さな子供のときに教えるしかないのだといわれたことがある。人を殺してはいけない、人のものを盗んではいけない、などの道徳。『礼記(らいき)学記第十八』にまさにそれを書いた文章がある(写真は湯島聖堂)。 「玉は磨かなければ器にならない。人は学ばなければ、道を知らない」(玉不琢,不成器;人不學,不知道。) ここで道というのは、もっと高い次元での道徳をいっているのかもしれない。しかし人を殺してはいけない、といった基礎的な道徳律を含んで
中国の歴史を紐解いて最初に出てくるお話しの一つが武王伐紂です。これは殷という国の最後の王様である紂がとても、残酷乱暴な王様であった。臣下や兄弟が諫めてもそれをうけいれなかった。異論を唱える者を捕まえたり殺したりした。この王様を殷の属国であった西伯侯姬發(つまり紂の臣下)が、殷内部の呼応勢力とも連携して、ついに紂を滅ぼし(周王朝を樹立し武王となった)というお話しを指しています(写真は増上寺山門)。 孔子と孟子ではこのお話しの扱いが少し違います。 孔子は武王伐紂を直接論評せ
三国時代(魏呉蜀の鼎立の時代)に董遇(2世紀後半から3世紀前半)という人がいました。時間を見つけては勉強して大学者になったとされています。いろいろな人が彼をしたって教えを乞いますが、彼はまず百回読むことだと言って、教えません。それを聞いた人は董遇に、その通りだと思いますが、しかしどこにそんな時間がありますかと聞くと、董遇は笑って答えました。三余の時間があるのにそれに気が付かないだけです。それは、冬の農作業の無い時、夜働く必要がない時、そして雨で出られない時です。聞いた人は