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中国思想・短編小説・歌曲選

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https://blog.goo.ne.jp/fu12345/e/7cc5e1ad373775c11668b88a748c64a6 中国的な考え方を知る手がかりを探しています。
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記事一覧

王志安と柴静の「封殺」

 封殺はその人物が書いたものの発禁の意味にも使う。王志安は2019年に,また柴静は2015年にそれぞれ「封殺」された。   王志安(1968-)の「王局拍案」を見ていて、柴静(1976-)のことを、ふと思い出し出した。王志安は社会的な事件を追及してきた調査記者。2017年に中央テレビ局(中央電視台)を退職後、ネットなどを通じて活動を継続していたが、2019年6月4日に、自身のネット上の主要アカウント3つが突如停止され、中国での活動が事実上出来なくなった(封殺された)。2020

鄭宜農 我也曾経想過一了百了 2018 ♪ 

僕が死のうと思ったのは  この歌は2013年8月に中島美嘉(1983/02-)がシングルリリースしたもの。それを台湾のシンガーソンガーである、鄭宜農(1987/03-)が2018年12月末の自身のコンサートで日本語でカバーしたのが、上に上げたものである。日本の歌手の歌を、中国語に置き換えて中国の歌にすることはよくあるが、あくまで日本語の歌として、歌っている。歌詞が、感情がこもっていてとても素晴らしいと思えた。「一了百了」は「死にさえすればすべては解決される」というのが原義。

♪ 趙雷 画 2011 ♪

赵雷(1986/07-)は、中国でありがちな「音楽学院」出身歌手ではない。農村出身で商売を営む両親のもとで育った。若い時、ギターを片手に上海や北京の地下道で歌を歌い、やがて猛烈に創作した。大学への進学の機会は早い段階で捨てた。エリートコースとは真逆の歩みだったが、コンテストに繰り返し参加して、ついに才能を見出された。「画」はそんな彼がまだ、全国的注目を集める前、苦闘している中の作品。2011年8月に借金して自主制作したアルバム「趙小雷」に含まれている。 2010年。彼は苦闘を

♪ 買辣椒也用券 起風了 2017 ♪

日本で生まれた曲が、中国で素敵な曲に変身することがあるが「起風了」もそうした曲の一つ。原曲は高橋優の「ヤキモチ」(発売2014年8月)。中国では米果作詞で、ネット歌手の买辣椒也用券(歌手冯沁苑フェン・チンユアンの网名)が2017年に最初にカバー。その後、多数の歌手が歌う大ヒット曲になった。 参考までに以下が高橋の最初の歌い方。

中国の農村を訪ねるサイト(頻道)

 youtubeで把握できる、中国の都市から離れた農村や少数民族を訪問して、その実情を伝えるネット上の頻道(ウェブサイト)が増えているように感じる。確認できるサイト数は多い。紹介は気付いたものの例示にとどまるが、サイト名と登録者数、閲覧数などを2023年2月28日時点で記録するとともに各サイトで最も多く閲覧されている頻視(日本語では動画)をあげてみた。いずれのサイトもyoutubeへの登録地は香港である。その意味では香港はなお、西側と中国との接点になっているのかもしれない。な

♪ 花姐 人生不过三杯酒 2021

 人生不过三杯酒 は2021年10月に発表された歌。お酒の歌で歌詞にも多分深い意味はない。だけど、酒には強いはずの中国の人たちが、この歌を歌って、本当に酔っている姿を見た時、あれっと思わないではない。なお白酒など東北の烈酒は、発癌との関係が中国では盛んに議論されている。これはおそらくだが、飲酒の量が大きいからだろう。  一般的に多量のアルコール(飲酒)が脳の萎縮を引き起こしたり(少量の飲酒は高齢者の認知機能を高める)、消化器系の癌の原因になる(少量の飲酒で赤くなる体質の人は危

♪ 魏佳艺 我來人間一趟 2022

 2022年6月に关剑(グアンチエン)や魏佳艺(ウェイ・チアイー)などが一斉にこの歌の音源を発表した(曲:徐信 詞:陳紅衛-裏の経緯は不明だが実は2022年5月に、同名の歌が泰博(タイ・ボオ)により発表されている。泰博のものは、祁松涛作曲、李冠軍作詞で、徐信のものとは全く別物であるが、二つの曲の歌詞には似た部分がある。正直に言うと泰博のものは完成度が低く、あまりいい曲とは思えない。同名の曲が複数出た背景には、同時期の同名のネット小説が絡んでいるように思えるが、ネット小説との正

♪ 汪峰 存在 2011

 中国語の学習仲間がこの歌を知ってますかと、以下の「汪峰の存在」を送ってきた(MVの発表は2016年)。知らなかった不明を恥じた。いい歌だ。  調べて見ると この曲は2011年10月に発表。2012年1月に北京流行音楽典礼で2011年度の金賞を受賞。その後、2017年夏に汪峰の音楽人としての歩みを記録した映画「存在existence」が発表され再度爆発的にヒットしたものらしい。知らなかった私がいけないのだ。先行の和訳を探して、Asenpsという所が1年ほど前になかなかいい

魯迅《一件小事》1920/07

 これは経験談のように思える。執筆は1919年11月と推定されている。魯迅《呐喊》北京燕山出版社2013年pp.31-33 (なお写真は白山神社のアジサイ。2020年5月29日撮影)。  乗り合わせた人力車の車夫の話。それは民国六年(1917年)の冬のこと。車夫と白髪で衣服もボロボロの老婦人がぶつかって、老婦人は倒れてしまう。魯迅はたいしたことではないと思い、それを口にしてしまうのだが、車夫は、老婦人を助け起こしてケガをしたといわれて、婦人を伴って交番の警官に「事故」を届け出

魯迅《社戯》1922/10

 社戲は農村で昔、お祭りのときに演じられた出し物のこと。ここではその思い出を述べた魯迅(1881-1936)の1922年10月の小説のこと。この小説を魯迅は自分は2回「中国戯」を見たことがあると話を始める。最初は民国元年(1912年)北京に来て間もない時。二度目は湖北省で水災義援金として切符を買ったとき(手元の竹内好訳は、「水災」をなぜか「火災」としている。岩波文庫1981年改訳版p.188)。いずれも席にゆっくり座って鑑賞するといったことにならなかった、顛末が描かれている。

孔子と孟子の違い 浩然の気

                             福光 寛  孔子の論語の世界と、孟子ではかなり人生観が違うが、一つの原因は言葉を述べたときの孔子、孟子それぞれの人生の年代や、そのとき社会から受けていた処遇など環境の違いにあるのではないか。孔子の言葉はおそらく孔子が晩年のもの。60代から70代だろうか。その言葉からは孔子の不遇が伺われ、晩年に至り、処世について、ポストをめぐる争いから少し距離を置いた、やや達観した心境が伺える。(写真は孟子像 立命館大学朱雀キャンパスに

知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は恐れない(論語子罕篇第九)

                             福光 寛  『中庸』の以下のフレーズは学問への姿勢を言っているように読める(写真は湯島聖堂にある孔子像 2020年2月24日)。  先生(孔子)はいう。学ぶことが好きなものは知に近い、努力して学ぶものは仁に近い、(知らないことを)恥と知るものは勇気がある。この3点を知るものは、努力して自身の徳を高めることを知っている。徳を高めることを知った人は、すなわち人を治めることを知る。人を治めることを知った人は、天下国家を治める

人は学ばなければ道を知らない 人不學,不知道(礼記学記第十八)

 少し前のことだが、道徳に属することは、小さな子供のときに教えるしかないのだといわれたことがある。人を殺してはいけない、人のものを盗んではいけない、などの道徳。『礼記(らいき)学記第十八』にまさにそれを書いた文章がある(写真は湯島聖堂)。  「玉は磨かなければ器にならない。人は学ばなければ、道を知らない」(玉不琢,不成器;人不學,不知道。) ここで道というのは、もっと高い次元での道徳をいっているのかもしれない。しかし人を殺してはいけない、といった基礎的な道徳律を含んで

易姓革命をめぐる孔子と孟子

 中国の歴史を紐解いて最初に出てくるお話しの一つが武王伐紂です。これは殷という国の最後の王様である紂がとても、残酷乱暴な王様であった。臣下や兄弟が諫めてもそれをうけいれなかった。異論を唱える者を捕まえたり殺したりした。この王様を殷の属国であった西伯侯姬發(つまり紂の臣下)が、殷内部の呼応勢力とも連携して、ついに紂を滅ぼし(周王朝を樹立し武王となった)というお話しを指しています(写真は増上寺山門)。  孔子と孟子ではこのお話しの扱いが少し違います。  孔子は武王伐紂を直接論評せ