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中国経済学史

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2020年5月の記事一覧

鄧子恢 四つの自由を提唱 1948/08

 1948年8月。当時、鄧子恢(トン・ツーホイ 1896-1972)は中原局の第三書記。第二書記の陳毅とともに中原局の実務にあたっていた。財政問題とともに幹部を大量に要請確保する必要があった。また中原局の司令部があった河南省宝丰には、開封の学校の教員や学生があつまっていた。そこで中原軍政大学とよばれる、軍人養成の大学が作られることになった。1948年8月下旬、その全校教員学生を対象に「党の総路線と総政策」と題した報告を行った。この報告は、手元の《鄧子恢文集》人民出版社1996

鄧子恢 私人資本を援助せよ 1949/10/31

(解題)論華中城市建設新方針。這是鄧子恢在中共武漢市代表大會上的報告。鄧子恢文集,人民出版社,1996年,pp.237-258 (新民主主義段階の経済の在り方についての鄧子恢(トン・ツーホイ 1896-1972)の議論である。大変明快に私人資本の発展を認めることを打ち出している。つまり、彼の考えでは、私人資本を発展させることが、この段階、つまり新中国建国にあたっての政策課題だった。こうした穏健な政策がとられていれば、戦後の中国の様相は大きく変わったのではないか。)(写真は礫川

鄧子恢 人民公社問題意見書 1962/05/24

干預當前農村人民公社若干政策問題的意見(1962年5月24日)這是鄧子恢寫給中央和毛澤東的報告。鄧子恢文集 人民出版社1996年 pp.587-599の要旨。鄧子恢(1896-1972)が、農民の小自由を、堂々と説いているところは、この当時の政治環境(こうした小自由に批判的だった毛沢東(1893-1976)をけん制できる人が党中央にいない状態)を考えると勇気のある人だと感じる(写真は湯島聖堂の遠景)。 p.587 最初に人民公社制度は基本は安定しているが、自然災害もあり農民

顧准 資本主義も変わった 帝国主義と資本主義(下) 1973年5月8日

 顧准《從理想主義到經驗主義》光明日報出版社2013年pp.103-107を翻訳したもの。手元にある《顧准文集》民主建設出版社2015年pp.257-261も参照している。  日本では、中国の経済学者、顧准(グウ・ジュン 1915-1974)はほとんど知られていない。しかし、かれの到達した知的水準がかなり高いことが、以下の翻訳からもうかがえるだろう。学問的に不毛であった文化大革命が終わる時期、ただ一人病躯に鞭打って北京図書館に通い詰め、資本主義や民主主義の本質を理解しようとし

顧准「 資本主義がなお生命力を有する原因はどこにあるのか」1973/05/09

顧准《從理想主義到經驗主義》光明日報出版社2013年pp.107-108 顧准(グウ・ジュン 1915-1974)について驚くのは、1973年―世界から孤立していた中国で、ここまで幅広い知識で、資本主義の生命力を見ていた人物がいたということだ。顧准は資本主義の生命力の源を批判の自由にもとめている。また批判を受けての改良を通じて、資本主義は少なくとも昔の資本主義とは異なったものになっている。それを顧准は資本主義の滅亡だとさえ言っている。(写真は文京シビックセンター) p.10

陳雲 当面の経済問題 1978/12/10

這是陳雲同志在中央工作會議東北組的發言。《陳雲文選 第三卷 第二版》人民出版社1995年, pp.235-238 p.235   四つの現代化の実現は、わが国の歴史で前例のない、はじめての偉大な進軍であり、積極的かつ沈着に行う(必要がある)。    今年7月31日、私は、かつて李先念同志に提出した。国務院が開催した討論会議(務虛會議)で数日の時間を用いて、もっぱら消極的意見を聞いた。我々はまずは積極的意見を聞かねばならず、また消極的意見を聞かねばならない。  我々は実際に即

一国二制度 中国経済用語

《一個國家,兩種制度》一九八四年六月二十二日,二十三日。這是鄧小平同志分別會見香港工商界訪京團和香港知名人士鈡士元等的談話要點。《鄧小平文選 第三卷》人民出版社1993年pp.58-61 p.58  中国政府が香港問題を解決するため、採用した立場、方針、政策は確固としており不変(堅定不移的)である。何度も話したように、わが国政府が一九九七年香港の主権を回復行使したあと、香港の現在の社会は、経済制度は変わらず、法律の基本は変わらず、生活方式は変わらず、香港の自由港としての地位