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中国に関連して生じた事実

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https://blog.goo.ne.jp/fu12345/e/7cc5e1ad373775c11668b88a748c64a6 政治的文化的側面を中心に年代順に採録。
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#魯迅

魯迅《孔乙已》1919/03

魯迅《呐喊》北京燕山出版社2013年pp.15-18 (写真は本郷給水所公苑 撮影2020年5月29日) 飲み屋で店員をしていた若者の回顧談。しかし魯迅がそうした経験をしたわけはないので、この話は完全に創作である。 20世紀初頭の中国は急速に時代が変わった時期。登場人物の孔乙已のように時代にのれず、おちぶれた人たちを魯迅もたくさん見聞したはずだ。その意味では、モデルやもとになった話はあるのかもしれない。 孔乙已はこの飲み屋の客。最初に飲み屋の客を、短衣幫を着ている労働者、

魯迅と馬寅初の不和について 2018

 同じ浙江紹興の出身であり、年齢も1歳差とほぼ同じであったこの二人の仲が悪かった話は有名だ。  掲祕魯迅和馬寅初爲什麽關係不好 2018/01/28 atoomu.com 2022年4月29日リンク切れ確認)による。  その理由の一つに上げられているのが、馬が正妻のほかに、2番目の若い妻を迎えていることを魯迅が嫌ったという話である。ただ当時、正妻のほかに妻がいることは違法ではなく、馬の伝記を調べると、正妻に男の子ができなかったのでという事情があるようだ。正妻そして副妻と終生仲

魯迅《藤野先生》1926/10

 魯迅と藤野(ふじの)先生との関係はこの小篇で歴史に残った(日付けは1926年10月12日 手元の『魯迅作品選』大安1967年pp.121-128を使った。この手元の本は私の50年以上前の学生時代のもの。時間は早く経つものだ。)。(写真は心光寺山門)  その中のエピソードでも心を打つのは、魯迅のノートに藤野が詳細に添削を加えたことだろう。留学生に対して確かにそうした指導が逆に必要なのだとも思う。昔、北海道大学で見た札幌農学校の資料のなかに、外国人講師の英語による講義をそのまま

從百草園到三味書屋(2)魯迅 1926/09

魯迅(ルー・シュン 1881-1936)。 魯迅は浙江省紹興県生まれ。その子供時代を思い起こして書いた散文である。写真は『魯迅作品選』大安1967年発行より採録した『三味書屋』内部。日本の寺子屋とは違い、机と椅子であり、天井も高い。中央に先生が座っていたのだろうか。散文の後半は魯迅がその子供時代に通った三味書屋という書塾の思い出である。なるほど書院ではなくて書屋というのだと感心する。勉強の方法はただひたすら朗読するというもの。その後習字。さらに先生による暗唱のチェック(対課)

從百草園到三味書屋(1) 魯迅 1926/09

魯迅(ルー・シュン 1881-1936)。 魯迅は浙江省紹興県生まれ。その子供時代を思い起こして書いた散文である。1926年9月18日と脱稿の日付けがある。なお写真は『魯迅作品選』大安1967年より採録した。この散文の最初の百草園の部分では、美女蛇伝説が語られる。人の名を呼んで返事をしたら、夜の間にやってきてその人の肉をたべてしまうという。その教訓は、覚えのない人に名前を呼ばれても絶対に返事をしてはいけない、というもの。記憶に残る教訓である。 結末的教訓是:所以倘有陌生的聲

魯迅《社戯》1922/10

 社戲は農村で昔、お祭りのときに演じられた出し物のこと。ここではその思い出を述べた魯迅(1881-1936)の1922年10月の小説のこと。この小説を魯迅は自分は2回「中国戯」を見たことがあると話を始める。最初は民国元年(1912年)北京に来て間もない時。二度目は湖北省で水災義援金として切符を買ったとき(手元の竹内好訳は、「水災」をなぜか「火災」としている。岩波文庫1981年改訳版p.188)。いずれも席にゆっくり座って鑑賞するといったことにならなかった、顛末が描かれている。

魯迅 阿Q正伝 1921

 魯迅の「阿Q正伝」を久しぶりに読んだ。このお話にはいくつかのポイントがある。一つは精神勝利法というもの。ボロボロに負けたって、考え方で勝利して意気揚々になるというもの。 打完之後,便心平氣和起來,幾乎打的是自己,別打的是別一個自己,不久也仿佛是自己打了別個一般ー心滿意足的得勝的躺下了。 この精神勝利法は阿Qをからかっているようであり、中国が遅れた状態から抜けだせなかった原因を探っているようでもある。  もう一つは阿Qがどこまでも、救われないみじめな存在で、最

魯迅《一件小事》1920/07

 これは経験談のように思える。執筆は1919年11月と推定されている。魯迅《呐喊》北京燕山出版社2013年pp.31-33 (なお写真は白山神社のアジサイ。2020年5月29日撮影)。  乗り合わせた人力車の車夫の話。それは民国六年(1917年)の冬のこと。車夫と白髪で衣服もボロボロの老婦人がぶつかって、老婦人は倒れてしまう。魯迅はたいしたことではないと思い、それを口にしてしまうのだが、車夫は、老婦人を助け起こしてケガをしたといわれて、婦人を伴って交番の警官に「事故」を届け出