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中国に関連して生じた事実

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https://blog.goo.ne.jp/fu12345/e/7cc5e1ad373775c11668b88a748c64a6 政治的文化的側面を中心に年代順に採録。
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#蒋介石

楊天石, 沈志華 中国史公開講座 upload in 2019-2020

楊天石*(1936-)(中国社会科学院)蒋介石日記和蒋介石其人 2019/10/01                      24小時大講堂(北京圖書館) 蒋介石は共産党の闘争土改に対して、孫中山の和平土改 双方贏改の方針を受け継いだが大陸では実行できなかった。このことが最終的に大陸を失う大きな原因になった。共産党の廃除私有制、階級闘争、暴力革命に対して、蒋介石は保護合理的私有制、階級合作、非暴力改革を唱えた。国際的には、中国の版図外の被抑圧民族の独立を支持した。大陸

村上衛 森川裕貫 石川禎浩『中国近代の巨人とその著作』研文出版2019年1月

正式のタイトルは『中国近代の巨人とその著作ー曽国藩、蒋介石、毛沢東』研文出版2019年1月。これは、2018年3月12日に東京の一橋講堂で行われた講演会の記録である。一読して大変面白かったのだが、同時に三人の講師の学識の豊かさに関心させられた(写真は心光寺にある石仏。寛文元年1661年寄進の銘が確認できる。)。 第一報告は村上さんによる曽国藩だが、磯田道史さんの武士の家計簿にならって、曽国藩にまつわるお金の話である。曽国藩が科挙の試験に合格して上京するところから話を起こして

李公朴、聞一多暗殺事件(1946年7月)と梁漱溟

 中国民主同盟の中央執行委員であった李公朴、聞一多が昆明で国民党の特務(スパイ)により暗殺されたとされるのは1946年7月11日と15日のことである。この事件は、共産党と国民党の間に立つ、中国民主同盟にとって、国民党を見限ることになる、大きな転換点になる事件だと考えられる。そこに到る時間的な流れを確認したい。ポイントの一つは国共が全面内戦に入る局面での出来事である点だろう。  ところで以下の時間の流れで分からない点の一つは、1946年5月20日(別の資料では5月18日)いった

反対党容認を求めた胡適 1946/07-48/12

解題                             福光 寛  任育徳《胡適 晚年學思與行止研究》稻鄉出版社·2018年pp.149-155,esp.153-155 このときの胡適は、北京大学校長であるとともに、中華民国の代表的言論人の一人であった(写真は礫川公園より東京都戦没者霊苑を望む)。  国民党は学生運動の「非政治化」に失敗。学生運動を抑え込む政策に転換し学生の反発を買った。他方、共産党が進める統一戦線に加わる学生は少なくなかった。  1947年夏時

西安(シーアン)事変1936/12/12

 中国における共産党と国民党の死闘が最終的に共産党の勝利に終わった一因に西安事変(1936年12月)の発生がある。以下の記述は王松《宋子文全傳》團結出版社2017年pp.153-191による。  (なお以下も参照している。林博文《張學良 宋子文 檔案大揭秘》上海人民出版社2010年,張學良口述歷史中的西安事變pp.46-50,宋子文所經歷的西安事變pp.150-153。なお写真は後楽園駅近く後楽園球場近くの擁壁。ビオフィルム工法:ナチュロックを表面に張っているーで特徴のある都