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中国に関連して生じた事実

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https://blog.goo.ne.jp/fu12345/e/7cc5e1ad373775c11668b88a748c64a6 政治的文化的側面を中心に年代順に採録。
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2022年6月の記事一覧

朱嘉明先生訪談録:1958-1967

 朱嘉明『中国改革的岐路』聯經(臺北市)2013年1月pp.16-25(1958年小学校への進学から1967年文革2年目まで)。中国の文化大革命について、外部から見ていて釈然としないのは、殺人や文化財の破壊を行ったことの責任が、今も問われていないことだ。これについては、文化大革命だけでなく、そこに至るまでの中国の近代史をみても、同様の殺人や文化財の破壊があること。文化大革命に限定して言えば、その主犯は幹部の子弟と目されること(宋彬彬について)などを指摘できよう。  ところで文

白羽「一個七〇届眼中的四中」1968-1970, 2012/03

『暴風雨的記憶』三聯書店2012年3月pp.363-364, 366-369から採録。白羽は1968年に北京四中に入学した人。1968年から1970年まで、13歳から15歳の多感な時期、文化革命下の中学生活をここでは述べている。とくに学生を農村に追いやる下放政策に公然と反対した趙京興についての思い出は圧巻である。白羽は1970年に四中を離れ小学教師。1977年北京放送(广播)学院に進学。その後、中央人民放送局(广播電台)に勤めている。 p.363 1968年初めに私が北

梁陳方案(1950年2月)について

 ここで梁陳方案とは梁思成そして陳占祥の二人によって、まとめられた北京市の都市計画案のことである。今日、北京を訪れるときに、すでに我々はそこにあった北京城の多くの遺構が失われていることに無自覚である。その遺構を保全しようと練られた計画が、梁陳方案である(この方案は林洙編『梁』中国青年出版社2013年1月pp.288-316に収められている。)。  この方案(方案とは手順計画の意味)は採用されなかったが、しかし結果として不採用だったことを惜しむ意見は中国にもある。ここでは王軍の

梁思成と北京 1949-1950

梁思成(1901-1972)は、北京の古城を保存する形での北京の都市計画案(1950年2月)をまとめたことで知られる。しかしその後、右派として批判されるようになった。彼が中国各地の古建築だけでなく仏像についても研究したことは特筆される。彼の研究を通して、中国がいわゆる社会主義化のプロセスで失ったのは人命だけでなく、かけがえのない中国の文化そのものであることが改めて意識される。 林洙《建築師梁思成》天津科学技術出版社1996年7月より p.107 新中国誕生後、北平が北京の名

李公朴、聞一多暗殺事件(1946年7月)と梁漱溟

 中国民主同盟の中央執行委員であった李公朴、聞一多が昆明で国民党の特務(スパイ)により暗殺されたとされるのは1946年7月11日と15日のことである。この事件は、共産党と国民党の間に立つ、中国民主同盟にとって、国民党を見限ることになる、大きな転換点になる事件だと考えられる。そこに到る時間的な流れを確認したい。ポイントの一つは国共が全面内戦に入る局面での出来事である点だろう。  ところで以下の時間の流れで分からない点の一つは、1946年5月20日(別の資料では5月18日)いった

帰国後の梁思成 1928-1950

ここでは帰国後の梁思成の履歴、清華大学で行おうとした建築教育に着目する。林洙《建築師梁思成》天津科学技術出版社1996年7月から 部分訳 p.95 すでに梁思成が米国から帰国した時に、まず沈陽の東北大学に行き、建築系を始めたことを指摘した。東北大学の建築系の体制と課程は、完全に彼の母校であるペンシルベニア大学建築系のカリキュラム(教程)に倣ったものといえる。(19)20年代米国ペンシルベニア大学の主な教師は皆「パリ美術学院」出身だった。建築の芸術性を強調し、学生