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中国に関連して生じた事実

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https://blog.goo.ne.jp/fu12345/e/7cc5e1ad373775c11668b88a748c64a6 政治的文化的側面を中心に年代順に採録。
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2019年7月の記事一覧

趙平『私の宝物 泣き虫少年のあの日の中国』連合出版2017年1月

 趙平(チャオ・ピン 1956-)という人の日本語小説。住んでいた場所は貴州省貴陽市。この人の経歴は、1966年文化大革命で貴州省工業局の幹部だったお父さんが走資派として批判されたことで小学校を退学。紅小兵を経験してから13歳から工場勤務。ただ英語の家庭教師を受けて英語を習得。英語通訳として働いたあと。1978年には統一試験に合格して四川大学に入学。ここで日本語を学び、さらに天津外国語大学大学院を経て日本には1991年留学。阪神淡路大震災で被災の経験もして2001年に帰国。と

余華「中国について」2010

 余華(ユー・ホア 1960-)は、小学生から中学生という多感な時期が文化大革命の時期。歯医者になってから作家に転業した変わり種である。お父さんは外科医、お母さんは看護婦だが、1980年代の中国では医者は専門職ではあるが、労働者並みの扱いだったこと(たとえば歯医者には見習い修行でなれたこと)、それに比べ作家になることの方が自由時間があり稼げる夢があったことが理解される必要がある。そして住んでいたのは地名からたどると現在の浙江省喜興市海盐县である。浙江省の北部、渤海湾に面した地

閻連科『我与父輩』2009年(飯塚容訳『父を想う』河出書房新社2016年)

 閻連科(イエン・リエンコー 1958-)は河南省嵩県の貧しい農村の出身。2008年から中国人民大学教授。『我與父輩』翻訳飯塚容訳『父を想う』河出書房新社2016年は原著が2009年、著者の生い立ちが4つの編に分けて語られる。内容としては、中国農村から見た中国社会の捉え方が記録されている。飯塚さんの訳文はとても自然だ(写真は吉祥寺大仏である。享保7年1722年の鋳造とされる。像高2.93M)。  最初に語られるのは、農村からみた学生の下放問題だ。農村から見て彼らはお客さんに過

遇羅克的出身論 1967

遇羅克的出身論 原載《中學文革報》第1期1967年1月18日 轉載《共產黨宣言》2014年3月8日 陳挂德《遇羅克:紅色中國爭人權先驅-紀念遇羅克殉難46周年》載《縱覽中國》2016年3月5日  遇罗克(ユラク 1942-1970)は学徒工員だとされ「出身論」を公にして、つまり出身階級で人々を分けて、悪い階級出身の人々を差別するという社会主義中国が始まって以来の悪しき差別問題に公然と異論を唱えた。出身がどうだというのは、その人の成分つまり、階級意識とは無関係ではない