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毛沢東(1893-1976)

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写真は徐州から南京に向かう毛沢東 1957年3月19日
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#成城大学

宋彬彬そして黃師

 まず宋彬彬(ソン・ビンビン 1947-)は新中国建国に貢献のあった軍人宋任窮(ソン・レンチオン 1909-2005)の娘(次女)である。彼女は北京師範大学付属女子中学の学生だった1966年、同中学の紅衛兵組織の先頭に立った。彼女の指導のもと、同中学では、多くの教員・生徒が紅衛兵のむき出しの暴力にさらされ、ついには8月5日、校長の下仲耘(シア・チョンユン 1916-1966)が死亡するに致った。事実上の殺人である。これは文化大革命における教育界における殺人の最初の例になった。

高崗,饒漱石事件 1953-54

   高崗(ガオ・ガン 1905-1954)と饒漱石(ラオ・シュース 1903-1975)の事件(1953-54)は謎が多い(写真は成城大学成城池)。中国共産党の歴史のなかで現在まで平反(名誉回復)がかなわないのはなぜか。事件は、一般には二人は反党同盟を結び、毛沢東、劉少奇、周恩来らに対抗しようとした、それが追及されたとされている。見直されないのは、彼らを追い落としたものとして、鄧小平や陳雲の名前も挙がり、二人の断罪には鄧小平がかかわっているので見直しはかなわないのだとい

中華ソビエト共和国の内政 1931-34

 中華ソビエト共和国。昔、高校のときに配布された世界史の資料に、確かに「中華ソビエト共和国」の文字を見たけれど、世界史の先生は全く触れることがなく授業は終わった。南京に国民政府が存在していたその同じ時代に、中国共産党は、その根拠地で「中華ソビエト共和国」の成立を宣言したのだ。1931年11月のことである。  いくつかの根拠地を合わせた面積は40余万平方キロメートル、人口は約3000万とされる。しかし国民党から繰り返し包囲攻撃を受けて、1934年10月に赤軍(紅軍)の主力は、こ

張国燾の離反離党 1938年4月

 張國燾は中国共産党の大幹部の一人だったが、1938年4月、つまり1937年七七(盧溝橋)事変後間もないという微妙なタイミングで、国民党特務により保護され共産党を離党している。ここで資料として使ったのは以下だが、この本には残念ながら、張國燾自身のなぜ党を離れたかという彼自身の主張はあまり詳しく書かれていない。むしろ本書は張國燾には批判的な立場で、つまり共産党寄りの立場で書かれている。それでも見えてくるのは張國燾が、このとき全力で党を離れようとしたことだ。そこには、共産党の非情

毛沢東「少数民族問題」(連合政府を論ずる) 1945年4月24日

毛澤東《論聯合政府》(1945年4月24日)載《毛澤東選集第三卷》人民出版社1991年pp.1029-1100, esp.1083-1084 p.1083  第九 少数民族問題  国民党反人民集団は中国に多くの民族が存在することを否認し、そして漢族以外の少数民族を「宗族」(父を同じくする家族、あるいはその家族の一人、嫁に出た女性を除く。原注によれば蒋介石《中國之命運》の中にある表現とのこと。)としている。彼らは各少数民族に対して、 p.1084   清朝政府と北洋軍閥政府の

鄧子恢 整風運動を批判 1962/06/08

(1962年6月8日 中央気象局幹部会議での談話で鄧子恢の講話。気象にひっかけて整風運動を批判している。知識人や専門家をどのように処遇すべきかを論じているように思える。劉少奇の発言を引用していることも注目される。このような発言が記録されていたことやその内容には、新鮮な驚きが残る。鼓勵專家發揮專長   鄧子恢文集  人民出版社   1996年 pp.600-604)(成城大学3号館003教室前)  最初に気象工作の重要性を述べ(一)、次に近年の成果をのべている(二)。そして気