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毛沢東(1893-1976)

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写真は徐州から南京に向かう毛沢東 1957年3月19日
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#大躍進

反右派闘争と大躍進の発動 1957-58

魯彤 馮來剛 黃愛文《劉少奇在建國后的20年》遼寧人民出版社2011年 陽雨《“大躍進”運動紀實》東方出版社2014年 黃崢《風雨歷程:晚年劉少奇》人民文學出版社2018年    等   1957年6月8日に人民日報は社説「這是爲什麽?」を発表。これが反右派闘争開始の合図になった(写真は吉祥寺経蔵扉木彫り絵 経蔵は文化元年1804年の再建とされる)。  1957年9月20日から10月9日。北京で八届三中全会が開かれた。この会議で中国共産党は無産階級と資産階級の間の矛盾、社会

Mao Zedong 毛沢東 1893-1976

Cited from BBC Historic Figures   毛は中国の共産主義者の指導者で中華人民共和国の創建者。彼は大躍進と文化革命という、災害と言える政策に責任がある。  毛は1893年12月26日中国中央部湖南地方の韶山で、農民peasant一家のもとに生まれた。教師として訓練の後に、彼は北京に旅行し、(そこで)大学図書館で働いた。その間に彼はマルクス主義の文献を読み始めた。1921年に彼は中国共産党の創設メンバーの一人となり、湖南に支部を設立した。1923年

Liu Shaoqi 劉少奇 1898-1969

劉少奇 Britannica Summary  劉少奇(1898年11月24日湖南省寧郷生まれ。1969年11月12日河南省開封で亡くなる。)人民共和国主席(1959-68年)で中国共産党CCPの主たる理論家。1920年代の共産主義を背景とする活動(の実績)は、1930年代そして1940年代中国共産党内での劉少奇の台頭を支えた。またソビエト連邦での彼の優れた学び(教育)と思考(研究)は、彼を中国政府にとり有能なスポークスマンにした。毛がその大躍進の失敗のあと主席を辞めた時、

王丹 中華人民共和国史十五講② 土地改革と反右派闘争 1950-62

王丹『中華人民共和国史十五講』ちくま学芸文庫2014年から第4講そして第5講から抜き書きをつくる。以下の記述のうち、いわゆる反右派闘争は1957年6月からであるが、その前に胡風批判などが先行しておきている。以下にでてくる大飢饉は1950年代末から1960年初頭にかけてがシビアだった。4000万を超える非正常死をもたらした一大惨事である。 p.112    1950年6月、中央人民政府は綱領的文書「中華人民共和国土地改革法」を発布した。土地改革の目的は、「地主階級の封建的搾取

匹夫もその志を奪うことはならず(論語) 梁漱溟和毛澤東的大吵 1953/09

(以下はネット上の<禁聞網>からの採録。表題は<梁漱溟触怒毛澤東結局....>   作者は<格丘山>とあり、五十年前に読んだ材料の記憶によるものとある。来源は<華夏文摘>。この1953年の梁漱溟と毛沢東の言い争いは「有名な事件」であるようだ。総路線への公然たる不満、知識人として正面からの異論。毛沢東にここまで正面から言い切った梁漱溟という人もすごい人だと思える。)  1953年9月11日中央人民政府拡大委員会で梁漱溟は大会発言を行い、李富春副総理の重工業発展についての、また

馬寅初-單槍匹馬 戰死爲止 1957-1960

   馬寅初について調べていた時に出会った梁中堂論文は衝撃的だった(梁中堂《馬寅初事件始末》中共山西省委党校学報 第34巻第5期 2011年11月 48-77)。関連論文などを広範に調査したうえで、著者は馬寅初の人口論が論争の中核であったという通説を否定して、そこに現れた経済理論、哲学思想、政治的立場が論争の焦点であったとしたほか、またこの論争に、康生、陳伯達など党中央は無関係だったとした。また退職に至る要因として秘書による、馬寅初の個人財産や日頃の言動の暴露が与えた衝撃が大

李達の毛沢東への忠告 1958/09

 李達(1890-1966)は中国のマルクス主義者のなかで、知識人として傑出した存在だったとその著書(社会学大綱や経済学大綱)を見て私(福光)は思ったのだが、日本では李達の業績を正面から検討した人はあまりいないように考えている。その李達は、新中国建国後、毛沢東(1893-1976)によって重用され、1952年からは武漢大学の校長を務めた。しかし結果として、激化する思想運動の嵐に巻き込まれて、1966年春から執拗な攻撃を受け持病が悪化するも治療も受けられず8月24日落命している

中ソ緊張激化と廬山会議 1958-60

魯彤 馮來剛 黃愛文《劉少奇在建國后的20年》遼寧人民出版社2011年 陽雨《“大躍進”運動紀實》東方出版社2014年 黃崢《風雨歷程:晚年劉少奇》人民文學出版社2018年    等  1956年にフルシチョフが行ったスターリン批判。その後起きたハンガリー事件に際して、ソ連が中国共産党の意見を求めたことは先に述べた。しかし両党の関係はその後次第に悪化した。  1958年にはソ連が中国領内にレーダー基地を設けることとと共同艦隊構想を示したことに、これは軍事的に支配するものだと

楊偉名《當前形勢懷感》又名《一葉知秋》1962/06

 この文書のことは、胡德平《中國爲什麽改革-回憶父親胡耀邦》香港中和出版有限公司2011年pp.30-39で《“一葉知秋”的萬言書-中國爲什麽改革之一》と題された巻頭に置かれた章を読んだときに、初めて知った。早速、楊偉名《一葉知秋-楊偉名文存》社會科學文獻出版社2004年を入手。以来時々、拾い読みをしていたものの紹介までに至る時間がなかなかなかった。いま少し時間があるので、楊偉名の紹介をしたい。(写真はヒペリカム・ヒドコートだろうか。竹早高校傍で出会った。)  楊偉名(ヤン・