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毛沢東(1893-1976)

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写真は徐州から南京に向かう毛沢東 1957年3月19日
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#陳雲

陳雲 ソビエトに向かうため上海へ 1935年6-8月

 この1935年にソビエトに向かう「旅行」は、国民党軍の包囲を破り、その支配地域を抜けてゆくものであり、陳雲は中共の最高幹部の一人であり、国民党軍に逮捕されるリスクは高かった。その中で敵地に深く進入して、ソ連への渡航を実現している。これは実現するオペレーション能力が、共産党側にあったということ。具体的には秘密党員のネットワークが存在し、多くの共産党協力者が国民党の陣地の側にいたこと。結果として、国民党(蒋介石)の側は、陳雲のソビエト「旅行」を阻止できなかった。葉永烈は、陳雲の

陳雲 「包産到戸」を毛沢東に進言 1962/07/09夜

1962年。この年、「7000人大会」があり大躍進政策の失敗が確認された。ただ大会は毛沢東の責任を十分追及しないまま終わった。そして毛沢東と劉少奇との間の矛盾対立は次第に拡大する。焦点は大飢饉を生み出した農業で、集団化政策の誤りを認めるかどうか。問題は明らかだったので、周囲の人々が次々に毛沢東説得を試みる。7月9日夜の陳雲による毛沢東への報告は、こうした動きの一つである。説得に失敗した陳雲は、治療を名目に蟄居を選択している。葉永烈『歴史的注脚』中華書局2014年6月pp.28

Chen Yun 陳雲 1905-1995

陳雲 Chineseposters.net  陳雲は、彼が中国共産党の歴史の実質的に全時期にわたりその政策決定の中心にいたことだけからでも、中国の指導者の中で最も影響力と権力があった一人とみなすことができる。彼は1931年から1987年の間、中央委員会に在籍した。政策決定の中枢(Politburo)に40年以上である。組合組織者としての地下活動のあと、陳は長征(1934-1935)に参加した。モスクワの派遣された(a stint)の後、彼は1937年に延安に戻り、そこで自身

陳雲のロシア留学 1935-1936

 陳雲(チェン・ユン 1905-1995)が1935年にロシアに向けて旅立った話は良く知られている。35年8月5日、上海から海路ウラジオストックに向かい、シベリヤ鉄道でモスクワに着いたのは8月20日(このロシア旅行の経緯は福光寛「鳥籠理論そして陳雲」『成城大学経済研究』第214号2016年12月37-42,esp.52を見よ)。そして翌年12月8日にはモスクワを離れて国境に向かった。モスクワ滞在は1年余り。なお今回資料として一部を訳出する劉芳啓《陳雲的蘇聯情緣》は朱佳木主編《

中共八大(1956)について

 1956年9月15日から9月27日まで開かれた中共第八次全国代表大会は正しい方針を定めたが、それが翌年以降、反右派闘争が拡大するなか、堅持されなかったことが、1950年代末からの大飢饉、1960年代半ばの「文化大革命」の混乱を招いた、との指摘がある。出席1021名。欠席は5名。ここでは邵琂『中共八大紀事』中共党史出版社2016年から2本の論文を検討する。すなわち以下である。  李捷『毛澤東與中共八大』(摘自《縱橫》1996年第7期)前掲書pp.42-53(この李捷の文章は、

七千人大会 1962/01/11~02/07

 これは1962年1月11日から2月7日まで北京人民大会堂で行われた拡大中央工作会議のこと。その後、中南海西楼会議室で2月21日から23日まで中央政治局常務会義が開かれた。後者は「西楼会議」と呼ばれる。この7000人大会から西楼会議への展開は人によってニュアンスが異なる。ここでは比較的近刊の黃崢《風雨歷程 晚年的劉少奇》人民文學出版社2018年pp.135-143を用いてまとめた。よく見られる、毛沢東の感情についての表現:七千人大会で毛沢東が立腹したなどーを省いている。客観的

衛興華《社會主義經濟學》2004

陳東琪主編《1900-2000中國經濟學史綱》中國青年出版社, 2004より第1章社会主義経済学pp.1-22 を抄訳。この章の分担執筆者は中国人民大学の衛興華(1925-2019)である。(写真は成城大学1号館中庭 2019年6月21日)  p.1   第一節 社会主義経済学の萌芽時期    一、社会主義経済学の最初の探索  20世紀に入るところで、マルクス主義が中国に伝播し世界で最初の社会主義国家ソ連が建設され、社会主義生産関係を研究対象とする社会主義経済学が生み出され