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毛沢東(1893-1976)

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写真は徐州から南京に向かう毛沢東 1957年3月19日
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#劉少奇

毛沢東と劉少奇 対立の表面化 1962

対立の表面化を1962年前半だとする説明を、以下を参照しながら述べることにする。  席宣 金春明《“文化大革命”簡史 第3版》2006年  魯彤 馮來剛 黃愛文《劉少奇在建國后的20年》遼寧人民出版社2011年  陽雨《“大躍進”運動紀實》東方出版社2014年  黃崢《風雨歷程:晚年劉少奇》人民文學出版社2018年 等  写真は1962年1月27日拡大中央工作会議上。いわゆる7000人大会会議でのスナップ。左から陳雲、劉少奇、毛沢東、鄧小平である。陳雲が緊張して

高崗,饒漱石事件 1953-54

高崗(ガオ・ガン 1905-1954)と饒漱石(ラオ・シュース 1903-1975)の事件(1953-54)は謎が多い(写真は成城大学成城池)。中国共産党の歴史のなかで現在まで平反(名誉回復)がかなわないのはなぜか。事件は、一般には二人は反党同盟を結び、毛沢東、劉少奇、周恩来らに対抗しようとした、それが追及されたとされている。見直されないのは、彼らを追い落としたものとして、鄧小平や陳雲の名前も挙がり、二人の断罪には鄧小平がかかわっているので見直しはかなわないのだとい

反右派闘争と大躍進の発動 1957-58

魯彤 馮來剛 黃愛文《劉少奇在建國后的20年》遼寧人民出版社2011年 陽雨《“大躍進”運動紀實》東方出版社2014年 黃崢《風雨歷程:晚年劉少奇》人民文學出版社2018年 等   1957年6月8日に人民日報は社説「這是爲什麽?」を発表。これが反右派闘争開始の合図になった(写真は吉祥寺経蔵扉木彫り絵 経蔵は文化元年1804年の再建とされる)。  1957年9月20日から10月9日。北京で八届三中全会が開かれた。この会議で中国共産党は無産階級と資産階級の間の矛盾、社会

徐友漁「文化大革命とは何であったか?(下)」

徐友漁「文化大革命是什么?」『中外学者談文革』中文大学出版社2018年pp.xxxvii-liを2回に分けて訳出する。今回は後半pp.xlv-li。 p.xlv       四 行為の動因  文化大革命中の、学生、紅衛兵、造反派、保守派さらに各種大衆組織の狂熱的で道理で説明がつかない行動は、外部観察者や後世の人にとり理解しがたい謎だが。真剣に分析した後に分かるのは、それは文革前の政治教育と意識形態が p.xlvi もたらしたもの(灌输)、中国社会と政治体制の矛盾が爆

徐友漁「文化大革命とは何であったか?(上)」

徐友漁「文化大革命是什么?」『中外学者談文革』中文大学出版社2018年pp.xxxvii-liを2回に分けて訳出する。今回はpp.xxxvii-xlvまで。 (解説) 文革をどう評価するか。日本社会から見ると異常な事件である文革。政治的でもある文革の評価を私自身も避けてきたが、いろいろ資料を読むほど、中国の最近の政治経済を考える上でやはり評価することを避けて通れないと考えるようになった。というのは、中国の現在の指導者は、若い時あるいは子供の時に、自身文革を経験した人たちだか

陳雲 「包産到戸」を毛沢東に進言 1962/07/09夜

1962年。この年、「7000人大会」があり大躍進政策の失敗が確認された。ただ大会は毛沢東の責任を十分追及しないまま終わった。そして毛沢東と劉少奇との間の矛盾対立は次第に拡大する。焦点は大飢饉を生み出した農業で、集団化政策の誤りを認めるかどうか。問題は明らかだったので、周囲の人々が次々に毛沢東説得を試みる。7月9日夜の陳雲による毛沢東への報告は、こうした動きの一つである。説得に失敗した陳雲は、治療を名目に蟄居を選択している。葉永烈『歴史的注脚』中華書局2014年6月pp.28

Liu Shaoqi 劉少奇 1898-1969

劉少奇 Britannica Summary  劉少奇(1898年11月24日湖南省寧郷生まれ。1969年11月12日河南省開封で亡くなる。)人民共和国主席(1959-68年)で中国共産党CCPの主たる理論家。1920年代の共産主義を背景とする活動(の実績)は、1930年代そして1940年代中国共産党内での劉少奇の台頭を支えた。またソビエト連邦での彼の優れた学び(教育)と思考(研究)は、彼を中国政府にとり有能なスポークスマンにした。毛がその大躍進の失敗のあと主席を辞めた時、

劉少奇の新民主主義構想 1948-1949

(薄一波『若干重大決策与事件的回顧』中共党史出版社 1997修訂版の2008年の重版。執筆開始は1988年。最初の刊行は1993年。写真は1950年6月中国人民協商会議における劉少奇である) 1. 北京と天津の接収 p.1 我が党が指導する中国革命は、毛主席が提出した農村が都市を包囲し、その後都市を取得するという路線(道路)に沿って、長期のこの上なく苦しい(艱苦卓絕)闘争を経て、1949年についに勝利を勝ち取った。これに応じて党の工作の重心は農村から都市に移動した。これは

三大戦役から高崗事件まで 1948-1954

(魯彤 馮来剛 黄爱文 共著《劉少奇在建國后的20年》遼寧人民出版社,2011年 全376ページ。この本は一通りの知識を得るには手頃。しかし文章は通俗的で、さまざまな資料からの寄せ集めの感は深い。ここでは気になった部分を抜き書きする)(写真は肥後細川庭園 2020年5月31日) p.3 中国人民解放軍は1948年9月12日から1949年1月31日まで、遼沈戦役、淮海戦役、平津戦役を相次いで発動し、合わせて国民党軍154万人をせん滅した。三大戦役の勝利は国共両党の武装力量

1.2 土地改革法制定前後

『杜潤生自述』人民出版社2005から (写真は占春園) 劉少奇報告の討論 p.5 1950年初め、中央は全会の開催を決定した。土地問題は議題の一つであった。土地報告を起草するため、私は2回北京に呼び出された。1回目は中央政策研究室副主任寥魯言が私に中南局の数人の幹部を北京に連れて行かせたもので、一緒に行ったのは張根生、任愛生など。ただ情況を報告した。もう一回は劉少奇の土地問題報告草稿についての意見交換のため、中南局の何人かが招集されたもの。それは湖南の黄克誠、江西の陳正

鄧子恢 農業の社会主義改造 1953年11月

(これは1953年11月2-3日、中共福建省第二回代表大会での鄧子恢の報告。新民主主義の時代は終わり、社会主義への過渡に移ったと明確に述べている。しかし同時にそれが毛沢東の認識の変化によるもので、毛沢東の認識は1953年の5月から9月にかけて次第に明確になったものであることも明記している。それに合わせて新民主主義が終わった時期を1949年10月の新国家成立時にさかのぼらせている。しかし変化の認識で毛沢東に同意しながら、鄧子恢は社会主義化が急激に進むことは想定していないことを続

劉少奇「民族区域自治問題」(憲法草案報告)1954年9月15日

憲法草案報告について(關於中華人民共和國憲法草案的報告)(1954年9月15日)《劉少奇選集下卷》人民出版社1985年pp.132-173,esp.162-167 p.162 憲法草案の序言と多くの条文は国内各民族間の平等友愛互助の関係を規定し、各少数民族の自治権利を保障した。  中華人民共和国成立以来、すでに民族圧迫制度は廃除され、国内各民族平等友愛互助の新関係が建設され、各少数民族地区の政治、経済と文化の事業は次第に発展を始めており、人民生活も次第に改善し始めている。

劉少奇「少数民族問題」(八大政治報告)1956年9月14日

中国共産党第八回全国代表大会での政治報告(在中國共產黨第八次全國代表大會上的政治報告)(1956年9月15日)《劉少奇選集下卷》人民出版社1985年pp.202-276, esp.250-253 p.250 少数民族問題を正確に処理することは、我々の国家工作の中の重大な任務の一項目である。我々は各少数民族の経済と文化における進歩を支援するさらに大きな努力をせねばならず、各少数民族をしてわが国社会主義建設事業で積極作用を十分に発揮させねばならない。  少数民族の状況は過去数年

ハンガリー事件(1956/10)を受けての劉少奇による国内調査(1957/02~04)について

ハンガリー事件(1956/10)を受けての劉少奇による国内調査(1957/02~04) 使用資料 魯彤 馮來剛 黃愛文《劉少奇在建國后的20年》遼寧人民出版社2011年,167-174      黃崢《風雨歷程:晚年劉少奇》人民文學出版社2018年,66-71 写真は1956年9月 中国共産党第八次全国代表大会で政治報告を行う劉少奇。  (1956年2月フルシチョフがソ連共産党20回大会で秘密報告を行いスターリンの全面否定を行った。中国共産党はスターリンの全面批判には