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毛沢東(1893-1976)

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写真は徐州から南京に向かう毛沢東 1957年3月19日
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#新民主主義

劉少奇の新民主主義構想 1948-1949

(薄一波『若干重大決策与事件的回顧』中共党史出版社 1997修訂版の2008年の重版。執筆開始は1988年。最初の刊行は1993年。写真は1950年6月中国人民協商会議における劉少奇である) 1. 北京と天津の接収 p.1 我が党が指導する中国革命は、毛主席が提出した農村が都市を包囲し、その後都市を取得するという路線(道路)に沿って、長期のこの上なく苦しい(艱苦卓絕)闘争を経て、1949年についに勝利を勝ち取った。これに応じて党の工作の重心は農村から都市に移動した。これは

三大戦役から高崗事件まで 1948-1954

(魯彤  馮来剛 黄爱文 共著《劉少奇在建國后的20年》遼寧人民出版社,2011年 全376ページ。この本は一通りの知識を得るには手頃。しかし文章は通俗的で、さまざまな資料からの寄せ集めの感は深い。ここでは気になった部分を抜き書きする)(写真は肥後細川庭園 2020年5月31日) p.3  中国人民解放軍は1948年9月12日から1949年1月31日まで、遼沈戦役、淮海戦役、平津戦役を相次いで発動し、合わせて国民党軍154万人をせん滅した。三大戦役の勝利は国共両党の武装力量

王丹 中華人民共和国史十五講① 共同綱領と五反運動 1949-52

王丹 中華人民共和国史十五講 ちくま学芸文庫 2014年 王丹のこの本は2回ほど通読している。今回は第1講から第3講までからメモを作成した。 p.35  中共の建国がなされたばかりのころ、最高の政治権力機構は名義上は中国人民政治協商会議であった。・・・注意すべきは、このときに「共同綱領」が確立した国の体制は「新民主主義」であって、「社会主義」ではなかった点である。 p.36  「共同綱領」はこのとき臨時憲法に等しく、中国がようやく最初の憲法を制定したのは1954になってか

鄧子恢 農業の社会主義改造 1953年11月

(これは1953年11月2-3日、中共福建省第二回代表大会での鄧子恢の報告。新民主主義の時代は終わり、社会主義への過渡に移ったと明確に述べている。しかし同時にそれが毛沢東の認識の変化によるもので、毛沢東の認識は1953年の5月から9月にかけて次第に明確になったものであることも明記している。それに合わせて新民主主義が終わった時期を1949年10月の新国家成立時にさかのぼらせている。しかし変化の認識で毛沢東に同意しながら、鄧子恢は社会主義化が急激に進むことは想定していないことを続

楊偉名《當前形勢懷感》又名《一葉知秋》1962/06

 この文書のことは、胡德平《中國爲什麽改革-回憶父親胡耀邦》香港中和出版有限公司2011年pp.30-39で《“一葉知秋”的萬言書-中國爲什麽改革之一》と題された巻頭に置かれた章を読んだときに、初めて知った。早速、楊偉名《一葉知秋-楊偉名文存》社會科學文獻出版社2004年を入手。以来時々、拾い読みをしていたものの紹介までに至る時間がなかなかなかった。いま少し時間があるので、楊偉名の紹介をしたい。(写真はヒペリカム・ヒドコートだろうか。竹早高校傍で出会った。)  楊偉名(ヤン・

王丰 鄧子恢與“四大自由” 1995

この論文は「党史研究」の1995年第6期に登場した論文。私自身かねて関心をもって紹介してきた、鄧子恢の四大自由論について、正面から論じている。書誌事項は以下の通りで、今回はこの論文を全文訳出する。 王丰《鄧子恢與"四大自由"》載《中共黨史研究》1995年第6期72-74,64. p.72    建国前夜と解放初期、鄧子恢は異なる場合に異なる”四大自由”を語り、議論(争論)を引き起こし、批判を受けた。鄧子恢自身も自己批判した。数十年が経ち、そのときの歴史を回顧することは、教訓