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毛沢東(1893-1976)

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写真は徐州から南京に向かう毛沢東 1957年3月19日
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#文化大革命

宋彬彬そして黃師

 まず宋彬彬(ソン・ビンビン 1947-)は新中国建国に貢献のあった軍人宋任窮(ソン・レンチオン 1909-2005)の娘(次女)である。彼女は北京師範大学付属女子中学の学生だった1966年、同中学の紅衛兵組織の先頭に立った。彼女の指導のもと、同中学では、多くの教員・生徒が紅衛兵のむき出しの暴力にさらされ、ついには8月5日、校長の下仲耘(シア・チョンユン 1916-1966)が死亡するに致った。事実上の殺人である。これは文化大革命における教育界における殺人の最初の例になった。

徐友漁「文化大革命とは何であったか?(下)」

徐友漁「文化大革命是什么?」『中外学者談文革』中文大学出版社2018年pp.xxxvii-liを2回に分けて訳出する。今回は後半pp.xlv-li。 p.xlv         四 行為の動因  文化大革命中の、学生、紅衛兵、造反派、保守派さらに各種大衆組織の狂熱的で道理で説明がつかない行動は、外部観察者や後世の人にとり理解しがたい謎だが。真剣に分析した後に分かるのは、それは文革前の政治教育と意識形態が p.xlvi   もたらしたもの(灌输)、中国社会と政治体制の矛盾が爆

徐友漁「文化大革命とは何であったか?(上)」

徐友漁「文化大革命是什么?」『中外学者談文革』中文大学出版社2018年pp.xxxvii-liを2回に分けて訳出する。今回はpp.xxxvii-xlvまで。 (解説) 文革をどう評価するか。日本社会から見ると異常な事件である文革。政治的でもある文革の評価を私自身も避けてきたが、いろいろ資料を読むほど、中国の最近の政治経済を考える上でやはり評価することを避けて通れないと考えるようになった。というのは、中国の現在の指導者は、若い時あるいは子供の時に、自身文革を経験した人たちだか

朱嘉明《中國改革的岐路》2013年1月

ここでは朱嘉明(チュー・チアミン 1950-)の1950年出生から1979年までをたどる。朱嘉明 《 中國改革的岐路》聯經出版  2013年1月,16-30  文革のところ四三派ー四四派の分裂のところはわかりやすい(写真はNTTドコモビル 2019年11月30日)。以下は内容のあらすじである。 嘉明の先祖は清朝の役人だった。頤和園の建設に関係していたのでお爺さんは頤和園の中で育った。ただ文革のときに家譜にあたるものをなくしてしまった。父親が1913年生まれ、母親は1917年

朱嘉明先生訪談録:1958-1967

 朱嘉明『中国改革的岐路』聯經(臺北市)2013年1月pp.16-25(1958年小学校への進学から1967年文革2年目まで)。中国の文化大革命について、外部から見ていて釈然としないのは、殺人や文化財の破壊を行ったことの責任が、今も問われていないことだ。これについては、文化大革命だけでなく、そこに至るまでの中国の近代史をみても、同様の殺人や文化財の破壊があること。文化大革命に限定して言えば、その主犯は幹部の子弟と目されること(宋彬彬について)などを指摘できよう。  ところで文

Mao Zedong 毛沢東 1893-1976

Cited from BBC Historic Figures   毛は中国の共産主義者の指導者で中華人民共和国の創建者。彼は大躍進と文化革命という、災害と言える政策に責任がある。  毛は1893年12月26日中国中央部湖南地方の韶山で、農民peasant一家のもとに生まれた。教師として訓練の後に、彼は北京に旅行し、(そこで)大学図書館で働いた。その間に彼はマルクス主義の文献を読み始めた。1921年に彼は中国共産党の創設メンバーの一人となり、湖南に支部を設立した。1923年

Liu Shaoqi 劉少奇 1898-1969

劉少奇 Britannica Summary  劉少奇(1898年11月24日湖南省寧郷生まれ。1969年11月12日河南省開封で亡くなる。)人民共和国主席(1959-68年)で中国共産党CCPの主たる理論家。1920年代の共産主義を背景とする活動(の実績)は、1930年代そして1940年代中国共産党内での劉少奇の台頭を支えた。またソビエト連邦での彼の優れた学び(教育)と思考(研究)は、彼を中国政府にとり有能なスポークスマンにした。毛がその大躍進の失敗のあと主席を辞めた時、

楊天石, 沈志華 中国史公開講座 upload in 2019-2020

楊天石*(1936-)(中国社会科学院)蒋介石日記和蒋介石其人 2019/10/01                      24小時大講堂(北京圖書館)    蒋介石は共産党の闘争土改に対して、孫中山の和平土改 双方贏改の方針を受け継いだが大陸では実行できなかった。このことが最終的に大陸を失う大きな原因になった。共産党の廃除私有制、階級闘争、暴力革命に対して、蒋介石は保護合理的私有制、階級合作、非暴力改革を唱えた。国際的には、中国の版図外の被抑圧民族の独立を支持した。大陸

王丹 中華人民共和国史十五講③ 中ソ関係と文化大革命 1952-69

王丹 中華人民共和国史十五講 ちくま学芸文庫2014年 第6講から第8講の抜書(写真は占春園の大イチョウ)。 p.231   重要なのはソ連との関係であった。・・・高崗が党から除名処分にされた(1955年)とき、その理由の一つはスターリンが高崗を高く評価したことであった。いまや、彭徳懐も似たような疑惑を身に受けることになったのである p.238   (廬山会議後の軍隊上層部彭徳懐勢力の粛清) 軍隊内部で異なる意見が醸成される可能性が、みごとに取り除かれてしまった  p.

胡喬木 中國爲什麽犯20年的“左”傾錯誤 1992/05

胡喬木(1912-1992)は延安時代に毛沢東の政治秘書を務めた人物。1978年に中国社会科学院院長。この論文は1989年3月から4月米国訪問時の学術講演に手を加えたものである。書誌事項は以下のとおり。 胡喬木《中國爲什麽犯20年的”左“傾的錯誤》載《中共黨史研究》1992年第5期pp.1-4 保守派の代表のように言及される人だが、ここで述べられている分析はバランスがとれており、納得できる点が多い。六四事件の直前、アメリカでの学術講演の内容という点も注目。胡喬木は1992年に