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毛沢東(1893-1976)

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写真は徐州から南京に向かう毛沢東 1957年3月19日
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#スターリン

毛沢東の読書リストについて

毛沢東の読書リストについて            福光 寛  毛沢東(1893-1976)が、中国に「大躍進」や「文化大革命」など国難をもたらした一因に、彼の渉猟範囲が偏っていて、西欧で国王の王権が制限され、民意が選挙を通じて議会に反映されるようになる歴史を、そもそも学んでいないのではないか?という仮説を私は持っている。また彼が仮に読んだとしても。読んだのは中国語の翻訳を通してでありその翻訳の質の問題があり、また彼がそのとき持っていた教養の範囲で、内容をよく咀嚼できたかという

1.2 土地改革法制定前後

『杜潤生自述』人民出版社2005から  (写真は占春園) 劉少奇報告の討論 p.5  1950年初め、中央は全会の開催を決定した。土地問題は議題の一つであった。土地報告を起草するため、私は2回北京に呼び出された。1回目は中央政策研究室副主任寥魯言が私に中南局の数人の幹部を北京に連れて行かせたもので、一緒に行ったのは張根生、任愛生など。ただ情況を報告した。もう一回は劉少奇の土地問題報告草稿についての意見交換のため、中南局の何人かが招集されたもの。それは湖南の黄克誠、江西の陳正

王丹 中華人民共和国史十五講③ 中ソ関係と文化大革命 1952-69

王丹 中華人民共和国史十五講 ちくま学芸文庫2014年 第6講から第8講の抜書(写真は占春園の大イチョウ)。 p.231   重要なのはソ連との関係であった。・・・高崗が党から除名処分にされた(1955年)とき、その理由の一つはスターリンが高崗を高く評価したことであった。いまや、彭徳懐も似たような疑惑を身に受けることになったのである p.238   (廬山会議後の軍隊上層部彭徳懐勢力の粛清) 軍隊内部で異なる意見が醸成される可能性が、みごとに取り除かれてしまった  p.

葉永烈 李鋭と廬山会議(1959)

葉永烈《歷史的注脚》中華書局2014年60-61。作家である葉永烈の取材ノートである。李鋭についての記述から廬山会議のところを引用する。取材ノートを読んでいると、沢山のことが分かっていて、なお一部しか字には残せないという作家の思いが伝わる。歴史とはそういうものかもしれない。 p.60   "廬山会議"は二つの重要会議を含んでいる。1959年7月2日から8月1日までの中共中央が江西廬山で開催した政治局拡大会議と1959年8月2日から16日まで挙行された党の八届八中全会である。

衛興華《社會主義經濟學》2004

陳東琪主編《1900-2000中國經濟學史綱》中國青年出版社, 2004より第1章社会主義経済学pp.1-22 を抄訳。この章の分担執筆者は中国人民大学の衛興華(1925-2019)である。(写真は成城大学1号館中庭 2019年6月21日)  p.1   第一節 社会主義経済学の萌芽時期    一、社会主義経済学の最初の探索  20世紀に入るところで、マルクス主義が中国に伝播し世界で最初の社会主義国家ソ連が建設され、社会主義生産関係を研究対象とする社会主義経済学が生み出され