マガジンのカバー画像

毛沢東(1893-1976)

84
写真は徐州から南京に向かう毛沢東 1957年3月19日
運営しているクリエイター

2022年7月の記事一覧

徐友漁「文化大革命とは何であったか?(下)」

徐友漁「文化大革命是什么?」『中外学者談文革』中文大学出版社2018年pp.xxxvii-liを2回に分けて訳出する。今回は後半pp.xlv-li。 p.xlv         四 行為の動因  文化大革命中の、学生、紅衛兵、造反派、保守派さらに各種大衆組織の狂熱的で道理で説明がつかない行動は、外部観察者や後世の人にとり理解しがたい謎だが。真剣に分析した後に分かるのは、それは文革前の政治教育と意識形態が p.xlvi   もたらしたもの(灌输)、中国社会と政治体制の矛盾が爆

徐友漁「文化大革命とは何であったか?(上)」

徐友漁「文化大革命是什么?」『中外学者談文革』中文大学出版社2018年pp.xxxvii-liを2回に分けて訳出する。今回はpp.xxxvii-xlvまで。 (解説) 文革をどう評価するか。日本社会から見ると異常な事件である文革。政治的でもある文革の評価を私自身も避けてきたが、いろいろ資料を読むほど、中国の最近の政治経済を考える上でやはり評価することを避けて通れないと考えるようになった。というのは、中国の現在の指導者は、若い時あるいは子供の時に、自身文革を経験した人たちだか

陳雲 ソビエトに向かうため上海へ 1935年6-8月

 この1935年にソビエトに向かう「旅行」は、国民党軍の包囲を破り、その支配地域を抜けてゆくものであり、陳雲は中共の最高幹部の一人であり、国民党軍に逮捕されるリスクは高かった。その中で敵地に深く進入して、ソ連への渡航を実現している。これは実現するオペレーション能力が、共産党側にあったということ。具体的には秘密党員のネットワークが存在し、多くの共産党協力者が国民党の陣地の側にいたこと。結果として、国民党(蒋介石)の側は、陳雲のソビエト「旅行」を阻止できなかった。葉永烈は、陳雲の

陳雲 「包産到戸」を毛沢東に進言 1962/07/09夜

1962年。この年、「7000人大会」があり大躍進政策の失敗が確認された。ただ大会は毛沢東の責任を十分追及しないまま終わった。そして毛沢東と劉少奇との間の矛盾対立は次第に拡大する。焦点は大飢饉を生み出した農業で、集団化政策の誤りを認めるかどうか。問題は明らかだったので、周囲の人々が次々に毛沢東説得を試みる。7月9日夜の陳雲による毛沢東への報告は、こうした動きの一つである。説得に失敗した陳雲は、治療を名目に蟄居を選択している。葉永烈『歴史的注脚』中華書局2014年6月pp.28