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毛沢東(1893-1976)

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写真は徐州から南京に向かう毛沢東 1957年3月19日
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2019年12月の記事一覧

高崗,饒漱石事件 1953-54

高崗(ガオ・ガン 1905-1954)と饒漱石(ラオ・シュース 1903-1975)の事件(1953-54)は謎が多い(写真は成城大学成城池)。中国共産党の歴史のなかで現在まで平反(名誉回復)がかなわないのはなぜか。事件は、一般には二人は反党同盟を結び、毛沢東、劉少奇、周恩来らに対抗しようとした、それが追及されたとされている。見直されないのは、彼らを追い落としたものとして、鄧小平や陳雲の名前も挙がり、二人の断罪には鄧小平がかかわっているので見直しはかなわないのだとい

朱嘉明《中國改革的岐路》2013年1月

ここでは朱嘉明(チュー・チアミン 1950-)の1950年出生から1979年までをたどる。朱嘉明 《 中國改革的岐路》聯經出版 2013年1月,16-30 文革のところ四三派ー四四派の分裂のところはわかりやすい(写真はNTTドコモビル 2019年11月30日)。以下は内容のあらすじである。 嘉明の先祖は清朝の役人だった。頤和園の建設に関係していたのでお爺さんは頤和園の中で育った。ただ文革のときに家譜にあたるものをなくしてしまった。父親が1913年生まれ、母親は1917年

遠藤誉『毛沢東 日本軍と共謀した男』2015

  新潮新書である(写真は諏訪山吉祥寺の山門。享和2年1802年築造)。  本書の最初の章で議論しているのは、毛沢東が現在の日本でいえば高校2年程度の学習で最終学歴が終わっていること。留学歴もない。そのコンプレックスが、知識人苛めにつながったというお話だ。示唆されているのは、北京大学図書館で働いたのは、大学受験資格を得るためだったというお話。なぜ図書館司書をしていたかという疑問があったので、この話はとても説得力がある。  そしてつぎのお話は最初のお話は1927年秋,蜂起に失