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鄧小平(1904-1997)

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#胡耀邦

1986年12月の学生運動について

 1986年末の学生運動についての正確な実態は公表されていない。しかし『中国共産党的九十年』中共党史出版2016年6月p.738は、つぎのようにその 影響として総書記の交代を伝える。「党の十二届六中全会決議(訳注 2016年9月28日)が強調した精神文明建設中のマルクス主義の指導地位を強め、資産階級自由化に反対するとの内容は、すぐに真剣な力で貫徹されなかった。1986年末、多くの(不少的)都市で学生運動(学潮)が発生し拡がった。1987年1月16日、中央政治局は拡大会議を開き

鄧小平 資産階級自由化に旗幟鮮明に反対せよ(1986年12月30日)

『鄧小平文選第三巻』人民出版社1993年12月pp.194-197より全訳。  学生が騒いだこと(闹事 原注73:1986年12月中下旬、資産階級自由化の思潮が氾濫する背景のもと、合肥、北京などの一部の高等院校の少数の学生は各種の情緒理由から街でデモをした。ごく少数の観念に取りつかれた人々が共産党の指導に反対し、社会主義道路に反対する扇動を行い、ある地方では交通秩序が乱されたり、社会治安の規定に違反する情況が生じた。その後、関係方面と学校当局の教育と指導により、事件は次第に

胡耀邦「中国にとり未来の銀のスプーンは何か」1986年6月11日

认识中国未来动向的银匙(1986年6月11日)载《胡耀邦文选》人民出版社2015年11月pp.646-651 英国の王室国際問題研究所での講演記録。 p.646 今日は皆さまのこの国際的な名誉と権威を享有されている国際問題研究機構を訪れることができ、傑出した国際問題の専門家そして学者の皆様と会見できますことを大変光栄に又嬉しく存じます。  (中略)私は皆さまに、本世紀から次の世紀までの中国の基本国策を二つの言葉にまとめることが出来ると、お伝えしたく思います。一つは改革開放

Hu Yaobang 胡耀邦 1915-1989

胡耀邦 Britannica Kids  中国の指導者鄧小平の援護者protegeである胡耀邦は1980年代に中国共産党の総書記を務めた。中国でかなり自由主義的な(more liberal)指導者のひとりである彼は、政治的経済的改革を刺激し、また学生指導者に寛容さ(leniency)を見せたことで、1987年に不名誉な形で(in disgrace)辞職させられた。1989年の彼の死は、幾つかの都市、とくに有名なのは北京の天安門広場において、改革を求める集団示威活動の引き金を

胡耀邦 改革への反発から辞職 1983-87

滿妹《回憶父親胡耀邦》天地圖書2016年,731-769  胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-1989)は1983年1月の全国思想工作会議において、全面改革を訴えた。つまり経済改革だけでなく、政治改革に踏み込もうとした。  しかし実際にすすめようとすると反発が生まれた。1983年2月、広東深圳を視察した時、幹部の選抜管理方法として、選挙方式に支持を表明した。沿海部の都市、汕頭、厦門などでは実施されていた。1984年陝西省で委員会の書記を選挙で選ぶ方式が決定(通過)すると、鄧

胡耀邦 マルクスは完全ではなかった 1984/12/02

这是胡耀邦同志在全国宣传部长会议上讲话的一部分。1984年12月2日。胡耀邦文選、人民出版社、2015年, pp.561-570, esp,562-564,566-568. p.562 十一届三中全会以前の相当長い間、我々の全党全国の工作は、つまり我々のすべての工作は、階級闘争のため(为纲)のものだった。異なる段階において、軽重の仕方に違いはあったが、しかし根本の指導思想からいえば、すべて「階級闘争のため」であった。当時あらゆる部門が、組織部門であれ、宣伝部門であれ、政府の

天は大きな任務を与える人にまず苦しみを与える(孟子)陸鏗《胡耀邦訪問記》1985/06

 「胡耀邦訪問記」は1985年6月1日(雑誌)『百姓』に掲載発表され、(この)文章は当時海内外、国際外交を震撼させた。政治界では中共領袖が示した前例のないオープンな姿に極めて高い関心が集まった。しかし(この記事)での言動は胡耀邦の失脚を招く一因になったことも知られている。採録時間は1985年5月10日午後3時半から5時半。場所は北京中南海で、画期的なインタビューを実現したのは、『百姓』半月刊社長、ニューヨーク『華語快報』発行人の陸鏗である。訪問記は長大である。全文は以下を参照

鄧小平 四項基本原則教育を強め、改革開放政策を堅持せよ 1987/01/20

這是鄧小平同志會見津巴韋總理穆加貝時談話的一部分。1987年1月20日。《鄧小平文選第三卷》人民出版社1993, pp.201-202  最近我々の方では、学生の騒擾であるとか、党の総書記の交代(更換)とかが発生した。この2つのことは関係があり、われわれはすでに処理を終えた。なぜ学生が騒いだのか?根本的にはわれわれの指導が軟弱であることの現れだ(反映了)。我々は四項基本原則堅持を説いているが、これはいつも四項基本原則を用いて人民を教育する必要がある。この数年間、資産階級自由

李鋭 改革開放を回顧する 2008

《對改革開放的一種回顧》載《李銳新政見 何時憲政大開張》天地圖書有限公司2009年82-85 2008年8月8日上午,在李銳家,王建勛記錄,整理。 p.82 今年は改革開放三十周年である。(30年前の 訳者補語)当時を回顧すると、自然と鄧小平、陳雲、胡耀邦、胡耀邦に趙紫陽の4人の行為を注目することになる(自然離不開四個人的作爲)、というのも改革開放の成否は、彼らの緊密な連携にかかっていたからである。そのなかのキーパーソンは鄧大人である。  鄧小平は林彪と同様に、歴史的に