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薛暮橋(1904-2005)、孫冶方(1908-1983)

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薛暮橋(1904-2005)そして孫冶方(1908-1983)の関係資料を採録。二人はかなり肌合いが違うが、上海そして北京で接点がある。
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#孫冶方

社会主義経済問題研究(第七稿)の執筆 1978年11月~79年1月

(「薛暮橋回憶錄」天津人民出版社1996/2006より) p.238 1976年10月6日 中央政治局は果断な措置を取り、「四人組(四人幫)」を粉砕し「文化大革命」というこの災難を収束させた。しかし1977年と1978年というこの2年は、正されるべき誤った路線の仕事がなお徘徊しており、深刻な障害となっていた。当時中央主席を担任した華国鋒同志は「四人組」粉砕では重要な役割を果たした。しかし彼の指導思想は依然「左」のモノを引き継いでいた。彼はすべて論を堅持し(すなわちすべて毛主

孫冶方 真理は時に少数の手に 1979

 以下は孫冶方《經濟學界對馬寅初同志的一場錯誤圍攻及其教訓》載《經濟研究》1979年第10期59-66の第三節「真理は時に少数者の手に(真理有時在少數人手裏)」その全訳である(op.cit., 63-64)。馬寅初の人口理論については、人口縮小が始まった現時点で評価が変わってくる可能性があるが、ここで注目したいのは、1950年代末の馬寅初に対する苛烈な批判、そして孫冶方のこうした批判への再批判である(写真は順天堂大学病院7号館エントランス 2021年6月25日)。 ・・・・・

孫冶方 劉少奇提倡民主 1980

 以下は孫冶方《重視理論 提倡民主 尊重科學-回憶少奇同志的幾次講話》載《經濟研究》1980年第4期の第二段落の翻訳である。《孫冶方經濟文選》中國時代經濟出版社2010年249-258,esp.253-255から採録した。この記述の前半、資本主義の未発展と民主の伝統の欠乏との関係の指摘は鋭いし興味深い。だが後半、小資産家が右に左に揺れ動くとするのは、記述として疑問が多い。小資産家かどうかは無関係で、民主の伝統が欠如している社会では、すべての人々が保身のため、右に左にゆれるので

張卓元 薛暮橋回顧録を読む(1) 1996

張卓元 對社會主義客觀規律的成功探索 經濟研究1996年第11期 55-59 p.55 1996年の国慶節。私は逸(はや)る気持ちで(以先睹为快的心情)35万字の薛暮橋回顧(回憶)錄を読みとおした。書中に、一人の社会責任感のとても強い経済学者を見ることができた。彼は、60余年の仕事と研究実践において刻苦して深く研究し(刻苦鑽研)、社会主義の客観経済規律の探索に努力し、相当に成功したと人々に思わせる足跡を残した。  薛暮橋同志は建国以後現在まででわが国でもっとも有名な経済学

吳敬璉 経済学者と中国改革 2004

 以下は吳敬璉《經濟學家,經濟學與中國改革》載《經濟研究》2004年第2期,8-16の前半3分の1を訳出したものである。吳敬璉(1930-)は高齢ながら、改革を進める立場で最近も発言する経済学者であるが、その評価を改革派とすべきか戸惑うところがある。たとえばだが、趙紫陽と李鵬との対立において、李鵬にすり寄ったとされる点。証券取引所について、これを賭博に例える議論をしたとされる点(株価をどう捉えるかの問題も確かにあるが、国営企業改革との関係、企業の資金調達との関係などの論点が落

衛興華《社會主義經濟學》2004

陳東琪主編《1900-2000中國經濟學史綱》中國青年出版社, 2004より第1章社会主義経済学pp.1-22 を抄訳。この章の分担執筆者は中国人民大学の衛興華(1925-2019)である。(写真は成城大学1号館中庭 2019年6月21日) p.1 第一節 社会主義経済学の萌芽時期    一、社会主義経済学の最初の探索  20世紀に入るところで、マルクス主義が中国に伝播し世界で最初の社会主義国家ソ連が建設され、社会主義生産関係を研究対象とする社会主義経済学が生み出され

王元化 孫冶方同志に関する思い出  2009

《回憶孫冶方同志二三事》 載 《人民政協網》http://rmzxb.com.cn/ 2009年1月15日(『解放日報』より転載)(2015年6月10日閲覧)  1962年6月から8月。陳伯達は孫冶方に毎日『紅旗』雑誌編集部に行き”座談会”に参加することを誘った。康生も何度か孫冶方に座談に行くことを約束させ、彼ができる限り「出す(放)」ことを奨励した。彼の「修正主義」罪の証拠を集めて、一撃でやっつけるために(一棍子打死)。彼はこれが陰謀であることをはっきり知っていたが、なお

劉国光「私の回顧と展望」『中国社会科学網』2017年4月12日

 以下の文章は《我的一些回顧與展望-訪著名經濟學者劉國光研究員》載《中國社會科學網》2017年4月12日(www.cssn.cn)の冒頭3分の1を訳出したものである。劉は1923年生まれ。西南連合大学経済系を1949年卒業。その後、清華の研究院に進んだとネット上の資料には出ている。しかし以下の本人の弁によれば大学卒業後、南京の中央研究院社会研究所にただちに入職したことになる。また同じくネット上ではソ連には1951-55年まで留学、副博士号を得たとある。 <中国社会科学法報(

孫冶方(ソ連留学1925.10-30.9):真人品格和學者情懷 張曙光 2018

 張曙光《中國經濟學風雲史 下巻Ⅲ》八方文化創作室, 2018年3月 (有名な孫冶方(スン・イエファン 1908-1983)のお話(孫冶方:真人品格和學者情懷 孫冶方:その本当の人ととしての風格と学者としての志)だが、張曙光の記述は多くの点でこれまでになく詳細である。張曙光は長時間の聞き取りをしたとしており、その内容は注目されてよい。なお最後の憲法改正の提言も、中国の知識人の間では知られていることかもしれないが私には新鮮であった。) p.1038 孫冶方の一生は順調でなく、お