見出し画像

衛興華《社會主義經濟學》2004

陳東琪主編《1900-2000中國經濟學史綱》中國青年出版社, 2004より第1章社会主義経済学pp.1-22 を抄訳。この章の分担執筆者は中国人民大学の衛興華(1925-2019)である。(写真は成城大学1号館中庭 2019年6月21日)

 p.1   第一節 社会主義経済学の萌芽時期
   一、社会主義経済学の最初の探索
 20世紀に入るところで、マルクス主義が中国に伝播し世界で最初の社会主義国家ソ連が建設され、社会主義生産関係を研究対象とする社会主義経済学が生み出された(應運而生)。しかし当時の中国はなお半植民地・半封建社会であったので、この時期の中国の学者の社会主義社会に対する認識ははなはだ朦朧としていた。
 1919年”五四”運動前後、中国人は系統的にマルクス主義の伝播を始めた。李大釗(リ・ダーチャオ 1889-1927   中国語の発音表記や生没年は訳者の福光が挿入したもの)、陳独秀(チェン・ドウシュウ 1879-1942)、このサイトなかの「陳独秀、魯迅、胡適、顧准」へのリンク)
p.2  李達(リ・ダー 1890-1966)などが主要人物である。当時、マルクス主義政治経済学を理解することは社会主義経済学のためだった。まさに李大釗が指摘するように、現在は社会主義経済学が世界を改造する新紀元であった。マルクス(1818-1883)の前にもたくさんの有名な社会主義者がいたが、彼らの主張は感情に偏り、空想にわたり、科学的理論体系を作ることができなかった。マルクスの学説において、社会主義経済学は独立のシステム(系統)となれた(原注 李大釗:《李大釗選集》人民出版社1959年版,第176頁)。それゆえに社会主義経済学の創始者はマルクスなのである。1923年に李大釗(リ・ダーチャオ)は北京大学で『社会主義下での経済組織』と題した講演を行い、社会主義が生産資料(手段 訳注)公有制を実行すること、新型の生産関係を建設し生産力を解放すること、などを説明した(原注   張問敏著:《中國政治經濟學史大綱(1899-1992)》中共中央黨史出版社1994年5月版第56頁)。
   20世紀の20年代末、30年代初めに至ると、一部の経済学者はマルクス主義政治経済学の資本主義部分を論述すると同時に、ソ連経済を研究対象とする社会主義経済学を研究した。この時の主要人物には、沈志远、狄超白,蔡丹华,陈豹隐などがいる。彼らは資本主義から社会主義への過渡時期と、社会主義の区別(差別)について論述した。社会主義制度が生まれる必然性について研究した。計画経済の規律性、条件、形式、内容、方法から社会主義の経済範疇などについてまで紹介した。中国の遅れた状態を解決するには主要な生産資料公有制を実行し、計画経済を実行し、労働生産性(率)を上げることだと指摘した。
  述べるに値することは、(19)30年代の中国学術界に出現した「中国社会性質の論戦」と「中国農村社会性質の論戦」についてである。論戦の焦点は当時の中国は一体いかなる性質の国家なのかの論争にあった。主要には帝国主義、封建主義、民族資本主義の三者の関係をめぐり、いずれが中国経済のなかで優勢な位置にあるかを論証する。外国資本主義が侵入後、中国社会経済に一体どのような作用をしたのか。封建勢力になお存在するのか。中国農村社会性質の論戦は中国社会性質の論戦を継続深化させたものである。この論争を通じて中国の社会性質と中国革命の性質ははっきり認識された。中国は半植民地半封建社会であって、資本主義社会ではないこと、中国革命は社会主義革命ではなく新民主主義革命であること。この論争を通じて、錢俊瑞(チエン・チュンルイ 1908-1985)、薛暮橋(シュエ・ムーチアオ  1904-2005)このサイト中の「薛暮橋」へのリンク  )孫冶方(スン・イエファン 1908-1983)2017年福光論文へのリンク)などのマルクス主義経済学者は鍛錬され、中国のマルクス主義政治経済学はその発展過程をたどり始めた。
 40年代マルクス主義の指導のもと、毛沢東(マオ・ツェートン 1892-1976)の「新民主主義論」の基礎上、p.3  一部の経済学家たとえば王亚南,许涤新らは中国が半植民地半封建社会から新民主主義社会に移る必然性を研究し、新民主主義社会の特徴である新民主主義社会の多様な経済成分、たとえば国営経済、資本主義経済、個人経済そして合作経済まで分析し、また新民主主義社会の財政政策、土地政策、農業政策、工業政策、労働政策などを紹介した。しかし全体としてみると、新民主主義社会の経済についてであり、ただその初歩の検討をしただけで、一つの完成整理した論理体系を形成したとはいえない。

   二、萌芽時期の社会主義経済学研究の特徴
 萌芽時期の社会主義経済学研究の主要な特徴は以下の点にある。
 第一、主要にはソ連の社会主義経済学の紹介であったこと。
 社会主義生産関係は最も早くはソ連に誕生した、社会主義経済学もまた最も早くはソ連で誕生したのである。そこで(對於)当時の中国学者にすれば、彼らは大量の労力を費やしてソ連の社会主義経済学を紹介した。彼らはソ連人の社会主義探索の影響を深く受けた、その著作の中にもまたソ連の政治経済学の痕跡を明らかに認めることができる。
 第二、社会主義生産関係の研究はなおはなはだ不十分だった。
 当時の中国はなお社会主義社会を建設していなかったし、ソ連ですら、社会主義建設からの時日はなお短かった、それゆえ社会主義の内在矛盾はなお十分に表れておらず、社会主義社会が生み出し作用する経済規律はなお十分認識されてなかった。まさにこのようであったので、当時の中国学者の理論研究も深まることはできず、完全に整った社会主義経済学の体系を作ることも不可能だった。
 当時の社会主義経済学は宣伝性と批判性は備えていた。主要にはマルクス主義の科学社会主義思想を宣伝し、旧中国の社会経済制度を批判し、中国が将来実行する社会主義社会の基本輪郭を描いて(勾勒),社会主義を建設する道を探索した。この点から見て、この時期を中国社会主義経済学の萌芽時期だということはできる。

p.4      第二節 社会主義経済学の曲折探索の時期
   一、曲折に満ちた発展過程
 1949年中華人民共和国が成立し、中国歴史の新紀元が開かれた。社会主義経済制度の確立とともに、社会主義経済学は一つの学科体系として逐次建設され始めた。しかし政治の風雲が定まらず(變幻)また知識分子の運命は順調でなかった(多舛)。それゆえこの時期の社会主義経済学は曲折した発展過程をたどった。
 建国初期、ソ連から伝来した経済理論が中国政治経済学論壇を支配した。その理論によれば、商品生産は私有制社会の産物であった。価値規律は社会主義の敵対物(異己力量)であり、市場は社会主義計画経済の反対物(相對立的)であった。とくにスターリン(1878-1953)の『ソ連社会主義の経済問題』(1952)発表されると、同書は商品生産の価値規律の観点を貶める根拠にされた(奉爲圭臬)。
    しかし1956年から、中国の経済学界は主流の伝統社会主義経済学に何度も挑戦した。多くの影響力のある経済学者が豊かで卓越した観点・主張を提起した。1956年に孫冶方(スン・イエファン 1908-1983)は計画と統計を、価値規律の基礎上に置くことを鮮明に主張した。1957年に顧准(グー・ジュン 1915-1974)は社会主義経済の中で価値規律による企業の生産経営活動の自発的な調節、価格の騰落による生産の調節を着想提起した(2018年の福光論文へのリンク)。1959年に于光遠(ユー・グアンユアン 1915-2013)は交換される製品(中略)がすべて商品なら、社会主義経済中に存在する交換関係はすべて商品交換関係だと提起した。1962年に卓炯(チュオ・トン 1908-1987)は商品経済(かどうか)は社会分業が決定すると提起した。社会分業が存在すれば商品経済が存在し、商品経済と社会主義は矛盾するものではなく、商品経済は社会主義建設の有力な工具になりうると。1963年に孫冶方は千の規律、万の規律のその第一条は価値規律であると提起した。利潤の多少p.5 は企業の技術水準と経営管理の良し悪しの総合指標であり、社会平均利潤率は企業が到達すべき水準であり、超過利潤率は先進企業を表し、未達企業は落後企業であるとした。
 指摘すべきであるのは、党の指導者も積極的意義の観点や政策主張を提起したことである。たとえば1956年に陳雲(チェン・ユン 1905-1995)2016年の福光論文へのリンク)は社会主義経済は市場調節により補充されると提起した(cf.→「陳雲文選」へ)。毛沢東(マオ・ツェートン 1893-1976)は1959年に価値規律は一つの偉大な学校であり、ただそれを利用することによってのみ、我々の幾千万の幹部、幾億の人民は社会主義建設が可能になるとした。
 1964年以後、極”左”路線の指導下で、経済理論界は組織をあげて指導者も含めて修正主義に反対する闘争を繰り広げた。孫冶方(スン・イエファン)らの生産価格をもって基礎価格とする主張や、利潤は企業の生産経営状況を反映する総合指標であるといった主張は修正主義として指弾された。その後、1966年に開始された「文化大革命」は過去に行われたあらゆる計画と市場の関係、さらに商品生産の探索を、等しく反党、反社会主義、反マルクス主義の「大毒草」だとされ、情け容赦のない休むことのない言葉の攻撃(口诛笔伐)を受けることになった。「文化大革命」後期に流行した『社会主義政治経済学』(上海人民出版社1975年6月版)は商品経済理論の大後退を含む経済理論である。
 1976年の4人組の粉砕から1978年の改革開放の前は、このとき主要だったのは、四人組の反動的謬論の清算である。社会主義商品生産は資本主義の土壌と条件を生まない、価値規律は社会主義の敵対物(异己力量)ではないなど、社会主義商品経済理論の健康発展の条件が準備された。

   二、主要な理論探索
 社会主義=公有制+労働に応じた分配(按勞分配)ーこれは多年多くの人の不変の信条であり、また所有制と分配理論の説明は一貫して中国社会主義経済学が、重視してきた点である。しかしこの時期、この方面の研究はなお薄弱であった。
 まず所有制の研究から見ると、50年代初期、所有制研究の重点は新民主主義時期に多様な経済成分が保存される必然性、内部矛盾、特徴、そして発展の趨勢にあった。1953年に過渡時期の総路線が提起されてのちは、経済理論界の所有制問題研究は、農業、手工業そして資本主義商工業の生産資料所有制に社会主義改造を進めることの必要性方面の論述に移った。全体からみて、経済学界の所有制研究は主として党の方針の解釈にとどまり、創造的な観点(創新的觀點)はとても少なかった。
(中略)
p.7  「文化大革命」に至ると、「四人組」的世論では物質利益の重視は修正主義的だとされ、 労働に応じた分配の中にある資産階級の法律的権利は批判されねばならないと提起され、労働に応じた分配は資本主義を生み出す、それゆえに無産階級専制のもとでは制限されねばならない、とされた。
 「文革」収束以後、経済学界は極左理論の対して系統的批判を行い、労働に応じた分配と資産階級の法律的権利は等しくない、分配において平均主義を徹底はできない、社会主義的物質利益原則を承認すべきである、とした。

   三、全体的歴史評価
 全体から見て、1949-1977年の間の社会主義経済学の研究は、普通ではなかった。曲折した探索と発展の過程であった。20世紀の末から見て、理論研究の屈折はすこぶる多く、観点が頻繁にひっくり返ったのが、この時期の著しい特徴である。
 まずソ連の『政治経済学教科書』(1954年ソ連で出版、1955年中国で出版)は中国に巨大な影響を与えた。それはソ連の社会主義モデルを中国に与えただけでなく、体系的な社会主義経済学をも中国に与え、中国は社会主義経済学の理論研究の隊伍を培養し、中国社会主義経済学の基礎を固めることになった。しかしソ連の社会主義経済学は中国の経済と経済理論に、多くのマイナスの要素も持ち込んだ。それはひとたび中国が社会主義建設する理論になると、商品生産の質が悪くなり、国民経済の作用、指令性計画などに価p.8  値規律が働かなくなった。ソ連の社会主義経済学の中国経済学への消極的影響のさらに重要な表れは理論の実際からの脱離、唯意思論そして不同意意見の発表が許されないこと、学術問題が政治問題にされてしまうこと、であった。
(中略)
   第三節 社会主義経済学繁栄発展の時期
 1978年の真理の基準(標準)をめぐる大討論と中国共産党の十一届三中全会は、思想の解放、実事求是の思想路線を確立した。工作の重点が移り改革開放の進展が加速するとともに、経済学界の思想は
p.9  ますます活発になった。伝統理論の人を束縛する規則制度(條條框框)が不断に突破され、現代経済学の優秀な成果が大胆に吸収され、社会主義の経済的本質の探索が努力され、改革開放と現代化建設の客観規律性が探し求められて、一連の重要な研究成果が得られ、中国の経済改革と経済発展に積極的推進作用が生じた。中国の経済学界はこの理論研究の春の日を歓迎し、社会主義経済学は急速発展の輝かしい時期に突入したといえる。

   一、社会主義市場経済理論の探索
 1979年4月 江蘇省無錫市で全国経済理論研討会が行われた。研討会のテーマは社会主義制度下の価値規律作用であった。多くの経済学者が会議で多くの深淵な影響のある理論観点を提起した。主要には(1)社会主義経済は商品経済であることを肯定すること。いくつかの論文は、社会主義経済は市場経済であるとさらに直接的(直截)であった。(2)社会主義経済の中で価値規律が調節作用をするのに、競争がその内在メカニズムであること。(3)企業は独立的かあるいは相対的に独立した商品生産者か経営者であること。(4)不合理な価格体系と管理体制の改革が進み、小工農業の製造品の不合理な価格差(剪刀差)は次第に縮小する。
 1982年前後、経済学界は社会主義経済は商品経済であるかどうかに関して、市場メカニズムが十分作用を発揮するか否かについて論争した。劉国光(リウ・グオグアン 1923-)は社会主義経済は商品経済に属するという観点を提起した。この観点は一部の人の非難(非議)にあった。1984年10月、党の十二届三中全会は、社会主義経済は計画のある商品経済だという結論をだした。併せてつぎのように指摘した。商品経済の十分な発展は社会経済発展の超えることのできない段階である。そこから、価値規律と市場メカニズムの作用は十分な肯定を得た。全会で可決した《中共中央の経済体制改革の決定について》は新たな社会主義経済学だと考えられている。このあとは社会主義経済もまた一種の商品経済だというのは人々の共通認識となった(從此以後,社會主義經濟也是一種商品經濟成爲人民的共識)。
 80年代後半期になると、経済学者は今一歩進んで、中国の経済改革は明らかに市場志向の改革、市場化の改革であるべきだと提起した。以下の内容が含まれるー企業が市場競争の主体となるべきである。価格改革の目標は市場価格体制の建設である。商品市場と要素市場をを含む内的市場体系の建設と発展。マクロ経済管理人は直接管理から間接管理主にシフトすること。全方位の対外開放を実行し、国際競争に参加すること、などなど。1986年にある文章は、マクロ経済管理の目標モデルは、
p.10   国家が市場を掌握することだとしていた(国家は経済手段と市場を需給調節に加えることで、市場に対して指導権を実現すると)、そして市場が企業を指導する、あるいは「国家が市場を調節統制し、市場が企業を指導する。」と。90年代初めになると、吳敬璉らは明確に提起した、経済改革の目標は社会主義市場経済の建設にあると、あわせて新体制の枠組みについて詳細な論述をおこなった。
(中略)
p.11  二、社会主義初級段階理論の探索
 1949年に中華人民共和国が建国されて以後、いかにして中国の条件の下で社会主義を建設するかは、一貫して人々が常に解決を強く求めてきた問題だった。中国は30年の探索を経て、70年代末、80年代初めに社会主義初級段階の共通認識を獲得した。以後、この共通認識を次第に深化、社会主義を以下に建設するかについて長い幻想の中の漫遊から現実に戻ることで、健康で快速の発展を得た。これは中国社会主義経済学研究の一つの重要な
p.12    成果である。
    社会主義初級段階理論の意味するところは、1956年社会主義改造基本完成以後21世紀中葉に基本現代化を実現するが、中国はなお社会主義初級段階にある。この期間は100年の時を必要とする。社会主義初級段階の主要矛盾は人々の日増しに高まる物質文化の需要と、それに落後する生産力との矛盾である。初級段階の基本任務は、経済の社会化、商品化、市場化を通じて、生産力を不断に解放発展させ、次第に工業化と現代化を実現し、(遅れた農業と進んだ工業という伝統的)二元経済の現代経済(への進化)を実現することにある。
 (中略)
 中国社会主義がどの段階にあるかは、単に重大な理論問題であっただけでなく、党と政府が方針政策を定める出発点である。1981年に鄧小平(ドン・シアオピン 1904-1997   →「鄧小平文選」)が中心となって起草した「中共中央の建国以来若干の歴史問題の決議」は明確に”中国の社会主義制度はなお初級的段階(階段)にある”と提起している。1987年に党の十三大は社会主義初級段階理論を系統的に論述し、(それはー社会主義初級段階理論は)人々の共通の知識になった。1997年党の十五大は中国が社会主義初級段階にあることを中国の最も基本的国情とし、社会主義初級段階にある党の基本綱領を今一歩(踏み込んで)論述し、社会主義初級段階の経済、政治、文化をそれぞれ明らかにした。これによって我々は中国の条件のもとで社会主義をp.13  建設する現実的に可能な道に到達したのである。
   (中略)

   三、社会主義所有制理論の探索
p.14(一)多様な経済成分の発展と非公有制経済問題の研究 
   1979年に薛暮橋(シュエ・ムーチアオ 1904-2005)は当時、都市の待業人員が2000万あまりに達していることが社会の安定に影響している実際情況に対して、多様な経済成分を発展させて就業の出口を広げることを勇敢にも提出した。彼ははっきりと提案している。「現在、個人経済そして資本主義の尾というものは利は多いが害は少ないだろう。」「我々は今や資本主義をもう一度亡くすことは不可能なのに、少しばかりの資本主義をどうして怖がることができるのか。」薛暮橋(シュエ・ムーチアオ)は中国で最も早く多様な経済成分を唱道した経済学者だといってよい。
   改革開放以来、一部の経済学家は力を尽くして(竭力)体制外の経済成長を主張した。これは市場経済を発展させ、公有経済面を市場に向けることを促進し、市場に適合し、公有制経済とくに国有企業改革の重要条件である。体制外の経済成長は、非国有経済、とくに非公有経済の発展である。1979年以来、非公有制経済はおよそ0から発展して1997年に経済総量の4分の1まで発展し、国民経済の中で最も活発で、成長が早く、経済発展に取り貢献が比較大きなグループである。

        (二) 国有経済の位置づけ(定位)問題の研究
   (一部の経済学者・・・劉国光(リウ・グオグアン)や董輔礽(ドン・フーレン 1927-2004)は、競争領域での国有企業の退出が望ましいとし、また一部の経済学者は、工業化現代化の実現のためには民間資本の不足する領域で国有経済の役割が重要だと主張している。)

p.15   (三) 国家所有制改革問題の研究
  (中略)

  (四)公有制実現形式の多様化の研究
  (中略)
p.16   (19)80年代中ごろから、中国社会経済生活には株式制経済の発展が出現し始めた。これは一種の混合所有制形式である。その中で大量の公有成分支配株という株式制経済を経済学者は一種の公有制形式だと考えている。80年代末、とくに90年代、各地にはまた各種各様の株式合作制が出現した。経済学者は株式制を新たな公有制形式だと考えている。これは、公有制の新たな実現形式としての株式制であり、国有工業企業の財産権制度の選択として適切であるだけでなく、土地所有権制度の選択としても適切である。

⇒ 金融研究でグローカル研究をどう進めるか 2020/03

#李大釗 #スターリン #劉国光 #孫冶方    #顧准
#于光遠 #陳雲 #毛沢東 #社会主義 #商品経済 #価値規律
#利潤率 #株式制    #成城大学キャンパス



main page: https://note.mu/hiroshifukumitsu  マガジン数は20。「マガジン」に入り「もっと見る」をクリック。mail : fukumitu アットマークseijo.ac.jp