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趙紫陽(1919-2005)

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#鄧小平

Deng Xiaoping 鄧小平 1904-1997

鄧小平 Britannica Kids  1960年代の文化革命の間、中国共産党政府は前副首相の鄧小平に山高帽を被らせて首都を歩かせて、公衆の前で辱めた。しかし毛沢東の死(1976)後、彼は中国の最高paramount指導者になった。鄧小平は、共産主義の厳格なイデオロギーに抵抗して、自由企業の要素を導入したことで、安定と経済成長の回復に貢献した改革者として賞賛された。しかし、1989年半ばに、純粋に民主主義の抗議者たちに軍事的弾圧crackdownを命じたことで、彼の国際的

Hu Yaobang 胡耀邦 1915-1989

胡耀邦 Britannica Kids  中国の指導者鄧小平の援護者protegeである胡耀邦は1980年代に中国共産党の総書記を務めた。中国でかなり自由主義的な(more liberal)指導者のひとりである彼は、政治的経済的改革を刺激し、また学生指導者に寛容さ(leniency)を見せたことで、1987年に不名誉な形で(in disgrace)辞職させられた。1989年の彼の死は、幾つかの都市、とくに有名なのは北京の天安門広場において、改革を求める集団示威活動の引き金を

胡耀邦 改革への反発から辞職 1983-87

滿妹《回憶父親胡耀邦》天地圖書2016年,731-769  胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-1989)は1983年1月の全国思想工作会議において、全面改革を訴えた。つまり経済改革だけでなく、政治改革に踏み込もうとした。  しかし実際にすすめようとすると反発が生まれた。1983年2月、広東深圳を視察した時、幹部の選抜管理方法として、選挙方式に支持を表明した。沿海部の都市、汕頭、厦門などでは実施されていた。1984年陝西省で委員会の書記を選挙で選ぶ方式が決定(通過)すると、鄧

胡耀邦の失脚と趙紫陽

                            福光 寛  胡耀邦の失脚は1987年1月に生じた。これに趙紫陽がどうかかわっていたかについては議論がある。  1980年から続いた胡耀邦を総書記、趙紫陽を国務院総理とする体制は1987年に入って開かれた中央政治局が開催した民主生活会なる会合(1月10日から15日)で胡耀邦批判が噴出したことで終焉を迎えた(直接的には1986年末に全国各地で起きた学生運動の責任問題。胡耀邦が資産階級自由化に反対するという旗幟が不鮮明であった

鄧小平 企業改革と金融改革 1986/12/19

這是鄧小平同志聽取幾位中央負責同志匯報當前經濟情況和明年改革設想是的談話要點。《鄧小平文選 第三卷》人民出版社1993年,pp.192-193(写真は播磨坂にて)    我々の改革は一体何歩歩かねばならないのか。どれだけの時間で完成するのか。皆さんには研究してほしい。  長期的に見て糧食問題はとても重要で、改革により農業発展が遅い問題(農業發展後勁問題)を解決する必要がある。企業改革は主としては国営大中型企業活性化(搞活)問題の解決である。  さまざまな形式を用いて所有権と

鄧小平 十三大に向けて 1987/08/29

這是鄧小平同志會見意大利共產儻領導人約帶和贊蓋裏時談話的一部分。1987年8月29日。《鄧小平文選第三卷》人民出版社1993,pp.251-252  わが国の経済発展を三歩の歩みに例えると、本世紀は二歩歩み、衣食が足りた中等生活(溫飽和小康)に至り、次の世紀の三十年を用いて(併せて)50年間でもう一歩歩むことで、中等発達国家の水準に達する。これは我々の戦略目標であり、遠大な理想(雄心壯志)である。我々の遠大な理想を実現するには、改革しないのは駄目だ。開放しないのも駄目だ。我

鄧小平 物価改革の実施 1988/05/19

 這是鄧小平同志會見由朝鮮人民武裝力量部部長吳振宇率領的朝鮮政府軍事代表團時談話的一部分。1988年5月19日。《鄧小平文選第三卷》人民出版社1993,pp.262-263   我々の党の十三回大会と全国人大七届一次会議は、いずれもその精神は今一歩思想を解放し、今一歩生産力を解放するというものである。  物価が正される(理順物價)ことで、改革は足並みを早めることができる。物価問題は歴史の経緯がもたらしたものだ(歷史遺留下來的)。過去、物価はみな国家が決めていた。例えば食糧(

朱嘉明先生訪談録:1988-1989

朱嘉明『中国改革的岐路』聯經2013年1月pp.44-46, 48-50 ここでは1988年の価格闖關(訳注 価格自由化の加速全面化)政策の採用から1989年の六四事件の評価までを採録する。ここで繰り返しでてくるのは、吴敬璉への非難である。一般的には呉敬璉は自由化政策の旗を掲げ続けている人物とされるが、他方で趙紫陽の「価格闖關」政策への攻撃を執拗に続けていることでも知られている。しかし少し調べるとわかるのは、この政策は鄧小平が推し進めたものだ。であれば鄧小平の責任も追及するべ

鄧小平 騒乱を許さない 1989/03/04

這是鄧小平同志同中央負責同志的談話。1989年3月4日。《鄧小平文選第三卷》人民出版社1993, pp.286-287  我々は四つの現代化を進め、改革開放を進めているが、その鍵は安定である。私はブッシュと会談したが、ともかく安定が必要である。なんであれ安定を脅かすものにはすぐに対応(對付)が必要であり、譲ることはできず、後伸ばし(遷)もできない。外国人の議論を恐れる必要はない、彼らの議論は彼らに任せることだ。ただ我々が保守的だ(不開明)と罵っているだけのことだ。長年我々は

方励之 鄧小平宛書簡 1989/01/06

中央軍事委員会鄧小平主席  今年は中華人民共和国成立四十年、また五四運動から七十年にあたり、四十年七十年の前後には必ず多くの記念活動があることでしょう。しかしここで過去を振り返るにあたり、多くの人は今日さらに未来に関して、この二つの記念日が新たな希望につながることを期待しています。  このようなことから、私は謹んで建議します。この両日が来る際に、全国で魏京生や彼と類似の政治犯について大赦を実行することを。  私は、魏京生本人についていかなる判断することも考えていませんが、彼の

許良英談鄧小平趙紫陽 1999

この記事のSourceは以下のとおり。許良英談鄧小平趙紫陽 1999年自由亜州電台 張敏専訪(open開放網 2013年12月8日更新)。以下は全訳。(写真は方励之文集第二巻より)  1986年11月、方励之は私を訪ねてきて、1987年は反右運動30周年だから、反右運動の歴史討論会をやるべきだと述べた。(そこで)私と、劉賓雁、方励之の三人が連名で発起人になったが、私の家の中で討論して決めたことだ。(しかし)鄧小平は胡耀邦に辞職を迫り、方励之らの党籍を解いた。我々の反右歴史討

李鋭 改革開放を回顧する 2008

《對改革開放的一種回顧》載《李銳新政見 何時憲政大開張》天地圖書有限公司2009年82-85   2008年8月8日上午,在李銳家,王建勛記錄,整理。 p.82 今年は改革開放三十周年である。(30年前の 訳者補語)当時を回顧すると、自然と鄧小平、陳雲、胡耀邦、胡耀邦に趙紫陽の4人の行為を注目することになる(自然離不開四個人的作爲)、というのも改革開放の成否は、彼らの緊密な連携にかかっていたからである。そのなかのキーパーソンは鄧大人である。  鄧小平は林彪と同様に、歴史的に