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趙紫陽(1919-2005)

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2020年2月の記事一覧

趙紫陽 出生から入党まで 1919-38

 蘆躍剛の『趙紫陽傳』INK印刻文学2019年を読み始めた。趙紫陽(1919-2005)については退任後の発言は分かっており、開明的な思想に至ったことは分かっているが、主席になる前のところの人生は、実はよくわからないところがあった。本書でその空隙を埋められると期待して読み始めたが、この本はまず書き方が時間に沿っていないので、よみにくい。別に編年体の趙紫陽伝を書いて欲しいところだ。以下はpp.70-98から抜粋再編集。  まず趙紫陽は河南滑県趙荘の地主(趙荘では二番目に大きな

趙紫陽 灣子会議での発言 1947/06

「地主階級全体について言えば、肉体消滅政策ではない。しかし農民が立ちあがり大罪極悪の地主を殺すことは、指導上は認められるべきだ(写真は湯島聖堂)。敵人が侵入占領すれば、地主は報復する。だから今日農民が反報復を(もっとすごいことさえ)進めるのもまた認めるべきで、これは革命行為であり、農民を信ずるべきだ。」「(日本軍に)抵抗した(抗屬)地主については、(一般の地主と)同様に消滅するべきだ。(日本軍との)抗戦は名誉あることで、抵抗したことは配慮を要するが、しかしどうするかは群衆が

趙紫陽 拡大中央委員会での自己批判 1962/02

広東省委員会を代表して拡大中央工作会議広東組大会で趙紫陽同志が行った自己批判 1962年2月3日午後(蘆躍剛『趙紫陽傳』INK印刻文学出版2019年pp,415-416)  (広東)省委員会は討論の中で多くの同志が行った指摘にある「省委員会は広東の問題は重大でなかった、あるいはひどい驕りではないからといって、自己満足してならない」という意見に完全に同意する。この話は大変良い意見であり、省委の警鐘(警惕)となるものである。経験が我々に教えるところでは、わずかに好評でまったく警鐘

趙紫陽と逃港事件 1962/04-07

 蘆躍剛『趙紫陽傳』INK印刻文学出版2019年pp.446-455をまとめた。  新中国が成立したあと、新中国で政治的な弾圧の波が高まるたびに香港に逃れる人がいた。1962年4月から7月。大陸の飢餓からのがれようと10数万といわれる人々が、深圳にあつまったとされる。この「難民」にどう対処するか。このとき現場で対応にあたったのが広東省委第三書記の趙紫陽であり、北京から指示を出していたのは周恩来である。周恩来は収口命令(閉鎖命令だろうか?)を出したという。  趙紫陽はこの問題