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観賞用、保存用、布教用。秋葉原のエロゲおじさんとグランドゲームにおける啓蒙

昔、秋葉原のエロゲショップに行った時、カゴに大量のエロゲを積み重ねてレジに持っていくおじさんを見かけたことがある。
エロゲの箱が10個以上はあった。

はっきり言って異様な光景だった。

どんだけ金使うんだと。
そしてそれをプレイする時間はあるのかと。
…仕事してるのか?と。

そのおじさんを見かけた時、オタクは観賞用、保存用、布教用と無意味に同じものを買うという説が頭に浮かんだ。

コスパが悪いのは明らかだが、彼らはこういった行為をやめない。
昔は、オタクたちは半分冗談でそんなことを言ってるんだろうとしか思っていなかった。

でもいまはわりと本気だったんだなと考えている。

なぜか。

彼らの行動原理には、コスパよりも優先順位の高い概念があったのだと思う。

おそらくそれは愛だ。

作品への愛、
作者や制作会社への愛、
同じ作品類を楽しむ仲間達のコミュニティへの愛、
あるいは文化そのものへの愛、

それらが彼らの行動原理を支えていたんじゃないか。

そして、世間一般には受け入れ難いアキバ系の変テコな作品への異常な愛という点を一度横に置いてみると、彼らの行っていた一連の営みは、公共的な市民に至るやり方としてとても善良なようにおもえた。

彼らの行動は自発的で、自由で、真面目で、とても市民的である。

布教用は、市民の啓蒙のためにある。
保存用は、啓蒙の持続可能性を担保するためにある。
観賞用は、同じものを何度も反復して繰り返し視聴することで、毎回少し異なる視聴体験を得て愛を高める行為である。(反復行為で少し異なる体験を得て愛を高める類似行為の例としてはSEXが挙げられる)

啓蒙という概念は、少し説教臭いところがあって、今はあまり魅力的な言葉ではないのかもしれないけれど、布教用を持つ価値は啓蒙にあるのだと思う。

ポストモダンのグランドゲームの状況下においては、"複数のゲームの観客を生み出す行為"こそが啓蒙であると東浩紀氏は言う。

グランドゲーム:ポストモダンにおいて大きな物語が喪失し、SNS等のプラットフォームが1強となり、全てのアクションが計量可能になった世界で、みながいいねを競い合うゲームに興じ、それがあらゆる経済活動と政治活動を回していく状況を指す。SNS上でも大人気のソーシャルゲーム、Fate Grand Orderの名を冠してグランドゲームと命名された。
(これはあくまで筆者の理解である。)

かつてのオタクたちは、誰も知らない作品の面白さを自分で発掘し、それを他の人に広めて仲間を増やすことで、その作品のコミュニティを盛り上げて観客を増やすという新しいゲームの展開を、布教と認識していたに違いない。

それはグランドゲームの世界においては、啓蒙と呼ばれる。

そんなこんなで、秋葉原のおじさんが大量のエロゲを買っていく光景が今でも脳裏に焼き付いていて、ぼくはずっとあのおじさんを尊敬している。

追記:グランドゲームにおける政治の啓蒙

グランドゲームにおける啓蒙とは複数のゲームの観客を増やすことである。
この考え方は、色々と想像を掻き立ててくれる。

例えば、政治領域における啓蒙とはなにか考えてみる。

いま政治といえばSNSである。
一言で言えばSNSがアツい。

政治家がアカウントを持ち、発言を巡っていいねとRTの数を競い合い、ハッシュタグを運用してマメに更新するのが常識である。
象徴的な例として、トランプ大統領のTwitterアカウントが挙げられる。

これはSNSという一つの大きなゲームが政治において重要な地位を占めたことを意味する。

したがって、政治における啓蒙を実施するためには、SNSというゲーム内で何かを発信するのではなく、政治について考えるための別の回路(政治運動・政治活動・webサービス…etc)をSNSゲームの"ロジック外"に新しく築き、それを盛り上げて観客を増やすしかないということになる。

それは大変な挑戦に違いない。

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