功績主義の功罪

(2021年4月に、CNETに書いたブログの再掲です)

水泳の池江璃花子選手が「努力は必ず報われる」と発言したことが、一時話題になりました。「努力すれば成功する」という考え方は、裏を返せば(対偶を取れば)「成功しない者は努力が足りない」とも解釈できるからです。池江さんの発言は、そのような一般的な命題ではなく、「努力してよかった」という主観的な感じ方を述べたのに過ぎないのでしょう(為末大さんのブログ「努力は報われるのか」[1] 参照)。ただし、「努力すれば成功する」という考え方には最近のポピュリズムにつながる、社会的に重大な問題が潜んでいそうです。

「白熱教室」で知られるハーバード大学のマイケル・サンデル教授の最新刊「実力も運のうち 能力主義は正義か?」[2] はこの問題に正面から切り込んだ1冊です。この本は「メリトクラシー」の功罪を論じたものです。メリトクラシーとは、より高い業績をあげた者により高い報酬を与える、という考え方で、日本語では「能力主義」と訳されることが多いようで、本書の訳語も「能力主義」となっています。しかし、人が「能力」を持っていることと、その能力を活かして実際に結果を出すことは必ずしもイコールではありません。能力があるのに、のんべんだらりと暮らしている人は、成果は出ないでしょう。ここでは「メリトクラシー」の訳語として、「能力主義」ではなく「功績主義」という言葉を使いたいと思います。

サンデル教授は、功績主義が今の米国社会の分断を産んでいる、と指摘しています。2016年に大方の予想を覆して、トランプ氏が大統領に選出されたのはなぜでしょうか。サンデル教授によれば、2016年の大統領選挙では大学を出ていない白人の2/3がトランプ氏に投票したそうです。米国では大学を出ていないと良い仕事につけません。グローバルな資本主義社会の中で金融やITなどで成功を独り占めにしている、学歴の高い人たちがいる一方で、伝統的な農業や製造業に携わる米国の労働者の多くは、大学を出ていません。それらの人々は、能力が無いのか、あるいは努力が足りないから、低い報酬に甘んじているのでしょうか。社会にとって等しく価値のあるはずの労働が、その報酬の多寡によって、より価値のあるものとそうでないものに選別されてはいないでしょうか。

おごりと屈辱

本書で、本来リベラルであるはずのサンデル教授は、オバマ元大統領の言説を痛烈に批判しています。ある時、オバマ元大統領は演説の中でこのようなことを言ったそうです。

「 アメリカを卓越した国にするもの、(中略)この 国では、どんな見た目であろうと、出自がどうで あろうと、名字が何であろうと、どんな挫折を味わおうと、懸命に努力すれば、自ら責任を引き受ければ、成功できるのです。前へ進めるのです」

これは、努力すれば成功できる、という功績主義を端的に現しています。この言葉が典型的な高学歴エリートであるオバマ元大統領から出てきたのを聞けば、低学歴の労働者たちはどのように感じるでしょうか。もちろん、努力は大切です。努力しなければ、何かを成し遂げることはできないでしょうし、オバマ元大統領は相当努力したのでしょう。でも、彼が「自分はこれだけ努力したのだから、大統領になれたのは当然だ(原書では、”deserve” という言葉が使われたのだと思います)」と思っているのだとすれば、それは「おごり」であると、サンデル教授は言います。この “deserve” という言葉は英語でよく使われますが、日本語では良い訳語が見つかりません。本書では「値する」という訳語を割り当てていますが、それだと、得られた結果が自分の責任である、というニュアンスが伝わりにくいと思います。

「努力すれば成功できる」という考え方は、裏返せば成功しなかった者は努力が足りなかったのだ、という考えにつながります。ここでも “deserve” という言葉が出てきます。努力しなかったから、それにふさわしい(deserve)社会的地位しか得られないのだ、今の結果はあなたの自己責任なのだ、という考えです。でも、本当にそうでしょうか。私たちの人生の多くは、自分の力の及ばないところで決まってはいないでしょうか。家が貧しくて高等教育を受けられなかったり、思いもよらない病気や怪我をしたために満足な仕事につけないことは、自己責任なのでしょうか。もし、国のリーダーが功績主義を声高に叫ぶのであれば、成功したエリートにはおごりを、そうでない人には屈辱感を与えがちになります。サンデル教授は、この功績主義こそが、米国社会の分断を招いている根本原因だと主張しているのです。

テクノクラート政治

アメリカの連邦議会では、上院議員の全員と、下院議員の95%が大卒者だそうです(一方、国民の大卒者の割合は3人に1人です)。日本でも、政治家や官僚には高学歴の方々が多いのではないかと思います(国会議員の出身大学ランキング[3]では、東大がダントツで1位です)。意思決定者がより専門的な知識を持ち、それに基づいて合理的な判断を行うことは望ましいことです。現代社会は、膨大な知識体系の上に築かれています。世の中が複雑になるにつれ、為政者には、より専門的な知識が必要となることは間違いないでしょう。すなわちテクノクラート(技術官僚)による政治です。

しかし、ここにも功績主義による分断の原因があると、サンデル教授は言います。テクノクラート的政治では、様々な専門家たちが政権中枢で意思決定に関与することになります。それら専門家の多くは、高学歴エリート、つまり功績主義によって選別された人々だと言えるでしょう。彼らがもし、「自分はこの専門分野で功績をあげているので、意思決定に関与するのは当然だ(deserve)」と考えるのであれば、そこには「おごり」が潜んでいる可能性があり得ます。「功績をあげていない一般大衆には意思決定に関与する資格がない」という考え方につながるからです。

たとえ地球温暖化対策や金融政策など、極めて専門性の高い分野の意思決定であっても、専門家が常に正しい意思決定を下せるとは限りません。そこには2つの異なる理由があります。1つは、専門家がその専門分野について良く知っていたとしても、道徳的な判断を下せるとは限らないことです。サンデル教授は、民主主義における政治家の役割は、社会の共通善(common good)をもたらすことだ、と述べています。何が共通善なのか、ということはこの本では触れられていませんでしたが、民主主義社会における共通善とは、社会の構成員が対話を通して見つけ出していくものだと想像します。環境や金融や医療やITの専門家が、共通善を正しく理解しているとは限らないでしょう。

もう1つの問題は、専門家であるほど、確証バイアス(自分の信念に合う証拠を、無意識に選択してしまうバイアス)にとらわれる可能性が高いことです。このことはあまり理解されていないと思いますが、ターリ・シャーロットの著書「事実はなぜ人の意見を変えられないのか」[4]には、様々な実験の結果、専門性の高い人であるほど、確証バイアスにとらわれやすいことが述べられています。対象としている問題が、専門家が日々扱っているものと全く同じであるのであれば正しい判断を下せるのかもしれませんが、見たことのない状況に陥ったときに、専門家であるほど、過去の知識に拘泥して正しい判断を下せないことがある、ということです(ただし、大学などアカデミアにいる専門家は、このようなバイアスに対する耐性を持っていると思います。詳しくは私のブログ[5]を見てください)。

労働の尊厳

高学歴エリートに反発してトランプ氏を支持した米国の労働者の多くは、極めて真面目な人たちなのだと想像します。それらの人々が、自分の労働に誇りを持ち「自分たちが米国社会を支えているのだ」という意識を持っていれば、今のような社会の分断は起きていなかったのでしょう。

一方、日本ではどうでしょうか。日本でも多かれ少なかれ功績主義があるとは思いますが、米国ほどでは無いように感じます。英語の “deserve” にぴったりとくる日本語が見つからないことをお話ししました。「因果応報」という言葉はありますが、普段あまり使う言葉ではないでしょう。自分は功績をあげたのだからよい待遇を得られるのは当然だ、という考えを持つ人は、日本にはあまり多くないように思います。むしろ、「実るほど頭が下がる稲穂かな」という言葉に現されるように、業績をあげれば上げるほど謙虚になる人々を私は多く見てきました。「職業に貴賎なし」と言ったのは、江戸時代の思想家、石田梅岩だと言われています。仏教の諸行無常の考えは、結果がどうであれ現状をあるがままに受け入れる、という東洋的な世界観を反映していると思います。

労働の尊厳について私が思い出すのは、ベンジャミン・ザンダーの著書 ”The Art of Possibility”(邦訳「人生が変わる発想力)[6]に書かれている、「すべての人に評価Aを与える」という考え方です。彼は、自分が教えている大学の授業の最初の時間で「私は皆さんに評価Aを与えます」と言います。「ただし」と彼は続けます。「今から皆さんにレポートを書いてもらいます。そのレポートの書き出しは『私はザンダー先生の授業で評価Aをもらいました。なぜならば…』にしてください」。どんな人でも、素晴らしい功績をあげる可能性を秘めている、という信念を端的に表している言葉だと思います。私は、社会のそれぞれの場面で、社会を支える労働に従事している方々に対して評価Aをつける、すなわち、それらの人々の労働を評価し、感謝する気持ちを忘れずにいたいと思います。

想像力と勇気

功績主義とその功罪、専門家(テクノクラート)による統治とその落とし穴について述べてきました。私たちは全知全能な存在ではありません。すべてを知ることはできないのです。それでもこの社会を前に進めていくためには、誰かが意思決定をしなければなりません。功績主義と、その結果である高学歴エリートの存在が社会の分断の原因になってしまうのであれば、どのように意思決定をしていくべきなのでしょうか。

SF作家である瀬名秀明さんはその著書「インフルエンザ21世紀」[7]で、これは「想像力と勇気の物語なのだ」と論じています。専門家とは何でしょうか。今回のコロナウィルスの問題で、いち早くダイアモンド・プリンセス号に乗船し現場の指揮を執った高山医師は、「現場とはコミュニケーションツール」だと断じています。中央の意思決定者は1つ1つの現場の状況を完全に把握することはできない、しかし1つでも現場を経験していればその感覚を元に様々な現場の状況を想像することができる、ということを言いたいのだと思います。私たちは常に、現場感覚を持ってそれぞれの状況を想像し、それに基づいて勇気をもって意思決定をしなければなりません。それが様々な分野における専門家である、私たちの社会における役割なのだと思います。

  1. 為末大, ブログ「努力は報われるのか」, https://note.com/daitamesue/n/n5ba3e1b07707
    , 2021.

  2. マイケル・サンデル「実力も運のうち 能力主義は正義か?」, 2021.

  3. 政治ドットコム, 国会議員出身大学ランキング【2020年版】,  https://say-g.com/topics/909

  4. ターリ・シャーロット, 「事実はなぜ人の意見を変えられないのか」, ISBN-13 : 978-4826902137, 

  5. 丸山宏, ブログ「騙されない自分」,  https://note.com/hiroshi_maruyama/n/ncc284ed9a84d, 2020.

  6. ロザモンド・ザンダー, ベンジャミン・ザンダー, 「人生が変わる発想力」, ISBN-13 : 978-4775941072.

  7. 瀬名秀明, 「インフルエンザ21世紀」, 2009.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?