SFに学ぶ超知性

人工知能研究の主要な目的の1つは、人間の知性を機械で模倣することによって、「知性とは何か」を解き明かすことです。70年ほどにわたる人工知能の研究によって、パズルを解く、ゲームをプレイする、定理証明を行う、画像や音声を認識するなど、多くの知的作業が人間と同程度、ときには人間を上回るレベルで機械に置き換えられることが示されてきました。言語を自由に操ることは、今まで機械には困難だと思われてきましたが、大規模言語モデル(LLM)の発達によって、それも人間並みにできるようになってきました。今後はどんどん追い越されていくことでしょう。そろそろ、人間を超える知性とはどういうものか、真面目に考えてみることも必要かな、と思いました。

人間を超える知性と言っても、なかなか具体的に思いつかないのですが、SF小説には宇宙人だったりロボットだったり、様々な非人間的知性が登場します。SF作家の想像力とは大したものだ、といつも思います。ここでは、私が読んだSFの中から、どのような非人間的知性があったか、をいくつかリストアップしてみましょう。

人間を戯画化した存在

とはいっても、SFに出てくる非人間的知性の多くは、実際にはとても人間臭さを感じるものです。私の好きなSFの1つは、デイビッド・ブリンの「知性化シリーズ」で、そこには姿かたちこそ人間とは大きく異なりますが、その性格は尊大だったり、論理的で冷徹であったり、いたずら好きだったり、となんだかいろいろなタイプの人間を戯画化したような存在です。「スターウォーズ」に出てくるドロイドのC3-POやR2-D2も、やはり人間臭さのあるキャラクターでした。

意識を持たない知性

人間は意識を持つ、という面では、まだ機械が真似できないところのようですが、意識を持たない知性、というものもSFには現れます。ジョン・スコルジーの「老人と宇宙」というシリーズにはオービン族という知性体が出てくるのですが、高度な科学技術を発展させているにも関わらず、個々の個体は自我意識を持たないことになっています。SFではないですが、ユヴァル・ノア・ハラリの「ホモデウス」では意識を持たない超知性という概念が語られていますし、神林長平の「戦闘妖精雪風」やキャプテン・ハーロックに出てくるアルカディア号も意識のない知性に(私には)見えます。

個人という概念も、SFの世界では曖昧になることがあります。「シンギュラリティ」という言葉の名付け親とされるSF作家バーナー・ビンジが書いた「遠き神々の炎」には、数匹集まらないと意識を持てない、狼型の知性体が登場します。知性を持つ6匹組(パック)から外れて1人になってしまった個体は、他のパックに合流しない限り意識を持てません。一方、ブリンの「キルン・ピープル」では、自分のコピーをいくらでも作ることができ、コピーたちは自分の命も顧みずに危険なことをします。死んだとしても、失われるのはコピーされてからの経験だけだからです。このような場合、個人とは何か、自分とは何か、という哲学的な問いが、ややこしくなるのではないでしょうか。

集合知性

集合知性という概念は、これはSFではないですが、物理学者であるバナールが1929年に書いた「宇宙・肉体・悪魔」という本で提唱したものではないかと思います。理性的精神、あるいは科学の万能性を信じていた時代の、もっとも尖った究極の未来予測とも言える本で、A.C. クラークなどSF作家に多大な影響を与えたとされています(私はEye's Japanの山寺さんの強い勧めで読みました)。バナールのこの本では人類の未来は、肉体の束縛を離れ集合知性を作り宇宙へ飛び立つ科学者を中心とする1団と、「人間らしくありたい」という願望を持ち地上に残る一般市民とに2分化すると予想しています。

集合知性で思い出すのは、スター・トレックに出てくるボーグです。こちらの集合知性は、宇宙のあらゆる知性を取り込んで同化してしまう、恐ろしい存在として描かれています。

高次の知性

人間よりもはるかに進んだ文明があったとしたら、どのようなものなのでしょうか。A.C.クラークの「2001年宇宙の旅」では、木星探査船ディスカバリー号のボーマン船長が高次の存在に取り込まれて「スターチャイルド」になる過程が描かれます。同じクラークの「幼年期の終わり」でも、地球人の1握りの子どもたちがオーバーマインドと呼ばれる超知性に取り込まれていく姿が描かれます。いずれの場合も、高次の存在になった人々が何を考え、何をしたいのか、地上の我々には想像もできないことになっています。

想像もできない知性、という意味では究極の作品がスタニスワフ・レムによる「ソラリス」でしょう。私は子供のころに「ソラリスの陽のもとに」という翻訳で読んだのですが、どうやらそれはソ連で検閲済みのロシア語を底本とした訳だったようで、最近になって新たにレムのポーランド語の原著を底本とした新訳が手に入ります。この本に出てくるソラリスの海は、明らかに高度な知性を持っているのですが、それと意志を通じさせようという試みはことごとく失敗します。結局のところ、あまりにも高度かつ異質な知性を理解することは、私たち生身の人間には到底無理なのかもしれません。

私たち自身を見つめて

SFでは、作家の想像力が及ぶ限りの、様々な知性を描いています。今後、本物の超知性が現れたなら、それはきっと私たちの想像力の上を行っているでしょう。それでも今、このように想像上の超知性を考え、それをベースに私たち人間のあり方を考えるときが来ているのではないでしょうか。PFNの岡野原さんは著書「大規模言語モデルは新たな知能か」の結びで、

結局のところ、人は異なる知能をもった存在によって、初めて自分たち自身を理解できるのかもしれない

岡野原大輔、【大規模言語モデルは新たな知能か」

と書きました。確かにそうなのだろう、と思うこの頃です。


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