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憧れの仕事

28年造船の分野でほとんど設計者として、造船技師として仕事をしてきた。最初から目指していたわけではない。小さい頃からいろんな職業に魅力を感じてきた。

小さい頃漠然としていたが医者になりたいと思っていた時期があった。幼少より病弱だった影響が大きい。しかし、その憧れは小学校5年生のときにキッパリと消した。あきらめた。父と一緒に訪れた病院の先生の言葉が刺さったからだ。高校時代からの父の友人であるそのお医者さんが「患者を手術で殺してしまった。」と父に話しているのを側で聞いていたからだ。子供心にも実際の殺人ではなく手術に失敗したという意味であることは何となく分かりはした。それでも人の命を預かる職業の厳しさ、怖ろしさを感じたからである。とても自分に務まるとは思えなかった。

医者を諦めた後は少し迷走したと思う。一瞬学校の先生も憧れだった。これはもともと自分には向いていないことは分かっていた。人前で何か喋ることが苦手である。独りで大勢の人数を相手にすることも同じく苦手である。それでも小学校から高校までの時期は最も身近な社会の職業人は学校の先生である。なので先生にあこがれるのは一時的にでも当然だったと思う。

結局乗り物が好きだったので船か飛行機を作りたいという思いが理系工学部への進学につながり造船所の就職へと行き着いた。

そんな中職業というよりあの仕事は良いなと妄想していた仕事がある。今のJRではなく国鉄時代の貨物列車の最後尾にある車掌??の仕事である。今の貨物列車は先頭の牽引車を除き最後尾も貨物が連なっている。しかし、昭和の時代黒い小さな人が乗る貨車があった。何をしていたのかは分からない。当時の自分には仕事らしい仕事が無い気楽な仕事に見えた。(この仕事に従事されていた方が読んでおられたら御免なさい!)ヤルコトが無くてしかもあちこちに行ける。車窓をボンヤリ眺め放題。気が向けば読書だって好き放題に出来る。勝手に妄想し暴走して、嗚呼!あの仕事に就けたらどんなに毎日が楽しいだろう!?と本気で思った。この憧れが妄想で終わった。国鉄が民営化された。ということもあるがいくらやりたくても国鉄に入って希望の仕事をピンポイントに指名してもとても要望が通るとはどうしても思えなかったからだ。

長崎では決して見ることの出来なかったJRの貨物列車。東京に出て毎日、ほぼ毎日みることが出来る。最後尾の黒い小さな貨車がない列車を見るたびにあのころの憧れを懐かしく思い出す。それとともに自分の判断、諦めて憧れを憧れのままにしておいたことを賢明な判断だったなと思う。自分には珍しく。

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