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父とサマセット・モーム

幼少の頃から病弱だったのでアウトドア派では断じてない。インドア派というか本を読むのが好きだった。子供の頃は特に物語、10代では小説を読むのが好き。いわゆるハウツーもの、ビジネス書を読む様になったのは社会人になってから随分経ってからのことである。本を読むことについて母は特に何も言わなかった。ごく幼い頃は絵本を読んでくれた記憶はある。孔子の言葉を空で覚えさせられた微かな記憶もある。だが自分が選んで読んだ小説についてどうこう批判したり褒めたりされたことはない。それはまるで無関心かの様でもあった。反して父は違った。中学時代現代国語の授業で教科書に載っていた小説を機にショートショートで有名な或る作家に溺れたことがあった。父はその積み上げられた文庫本を見て相当批判した。怒っていたと言ってもよい。(あまり詳しくは書けないが要はつまらん小説など読むな、ということだった。)父の言わんとしていることはおぼろげながら分かってはいた。実際その作家のショートショートを読み漁りながら飽きて熱が冷める日がそう遠くない将来に来ることも何となく認識していた。それでもそのときは隠れてもその文庫本を手にしていた。一種の熱病みたいなもの。時間が経てば治る。ただ、父には読書について一家言あり息子の読む本についてすらあれこれうるさいことを心の奥深くに留めていた。少し成長して大学生時代に実家から下宿に戻った際読みかけの小説を置き忘れていたことに気づいた。イギリスの小説家サマセット・モームの「月と6ペンス」だった。次に実家に帰った際案の定父から一言あった。「モームは原語で読め。」

子供は親を越えられるのか。息子は父を凌ぐことが出来るか。親子関係の永遠のテーマだ。末っ子の父はワガママなところがあり息子の自分から見てもその欠点は見て取れた。その様な面を限定的に捉えれば父を凌ぐことはさほど難しいことではない。しかしこと文学の分野ではあの学生時代にかけられた言葉から父を越えることは一生かかっても無理だと一瞬で悟ったのである。50歳を過ぎた今でもモームに限らず原語で海外の小説を読んだことはない。オリジナルの小説に薫る微妙なニュアンスを感じたことはない。言葉の背景にある隠された意味合いを辿る密かな楽しみを覚えることもない。(そもそも英語にしたってそこまでの語彙力があるわけではない。)ただ、かつて叱られた低いレベルから求められる極みを目指すのも自分のペースで行こうと達観している。それでも読むに足る本を翻訳本ではなく原書を手にする日が来るのか今は到底自信がない。

青は藍より出でて藍よりも青し。

それでも結局自分は青になれなかったと結論づけるのはまだ早い。じっくり前へ進もう。


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