母の卒業、私の卒業 #シロクマ文芸部
卒業の気配は感じていた。
けれど、何もできなかった。
ウチはこの町でそこそこ人気のある食堂を営んでいる。まあまあ有名な中華料理店で十年働いた父が独立して始めたそうだ。
母は料理の勘みたいなものが優れていて、父の技を見よう見まねで盗んでしまったらしい。母曰く、「チャーハン以外はあの人より美味しく作れる」そうだ。
父は私が高校生の頃に他界してしまい、私は自然と店を手伝うようになった。母は人にモノを教えるのが信じられないくらいヘタクソな人なので、私も見よう見まねで覚えるしかなかった。
母に試食させては、薄いだの、濃いだの、不味いだの、散々な評価をもらって悔し涙を流していたが、最近では「まあまあね、まあまあ」と言ってもらえるようになった。
気づけば、私は二十五歳、母は五十歳になっていた。
ある日、最後の客が帰って後片付けをしていると母が言った。
「ねえ、サキちゃん。アタシ、もう疲れちゃったわ。中華鍋振るの」
「またその話?来月、中華鍋、軽いものに買い替えようねって話したでしょ」
母は首を振って言った。
「いや、そういうんじゃないの。もうね、辞めようと思うのよね」
「何を?」
「この店をよ!」
母は少し怒って言ったが、私にはそれ以上の怒りが湧いてきた。
「何言ってるのよ!この店を辞める?辞めてどうするの!お父さんと始めた店でしょう?私、もっと頑張るから。辞めるなんて言わないで」
「サキちゃん。あなたはもう大丈夫。あなたの腕はね、もうアタシより上よ。お世辞じゃないの。この前、賄いのチャーハン食べて分かったの」
「そんなこと、そんなことないよ!まだまだ全然味が安定しないし。接客もヘタクソだし……」
私は涙がどんどん溢れてきた。
母がティッシュの箱を渡してくる。
「何も泣くことないでしょ。味はそのうち安定するし、接客もね、アンタ、そこそこかわいいから大丈夫だって。アタシには分かるの」
「いや、全然分かってない!私はお母さんと一緒にこの店続けたいのよ!辞めないで!嫌だよ……」
母は私を抱き締めてくれた。何年振りだろう。
私が泣き止むと、母は私の身体を引き離して言った。
「アタシだってね、ずっとこの店を続けたい気持ちはあったわよ。でもね、この前、主人公ががむしゃらに働いて満足して死んでいくドラマを観たの。アタシはね、逆にね、こうはなりたくないって思ったのよ。もっといろんなことして死にたいって。サキ、あなたはいいの?このままで」
「私……私は、そんなこと考えられなかった!お母さんを手伝うことしか」
「そう、そうよね、ごめんね。今まで本当に有難う。でも、いいの。もういいのよ。今からでも自分のやりたいことをやって欲しい。それがアタシの望み」
「そんなこと、今更言われたって……。私は、今はこの店を続けたい。それが私の望みよ」
「そう。分かった」
母は言うか悩んでいるようだったが、いつもより小さい声で話し始めた。
「あのー、ね、サキちゃん。熊澤さんっているでしょう?」
「……週三で来て野菜炒め定食頼む人?」
「そうそう、よく覚えてるわね」
「そりゃ、お母さんに向かってうまいを連発するんだもん。覚えちゃうわよ」
「あの人ね、ああ見えて社長さんらしいわよ。数年前に離婚して寂しいらしいわ」
「ふーん、そうなんだ」
「そう、それでね。アタシ……プロポーズされちゃった」
「は?」
「とてもいい人なの。優しくて頼り甲斐があって、支えてあげたくなっちゃったの。駄目かな?」
「駄目かなって、それが店を辞めたい理由なのね!信じられない!」
私はその場から逃げ出して、自分の部屋に閉じこもった。その日は眠れなかった。
朝は生きている限り、やってくる。
母はいつも通り、朝食を用意してくれていた。
「サキちゃん、おはよう」
「……おはよう」
「朝ごはん、食べるよね?」
「いいよ」
「ん?」
「いいよ、店辞めて。でも急には嫌だから後一ヵ月は続けてくれない?」
「……サキちゃん、ありがとう。一ヵ月と言わず、あなたが大丈夫って思えるまで、お母さん、続けるわよ」
「いや、一ヵ月でいい。そうじゃないとズルズルしちゃうから」
「そう。わかった。ありがとう」
母の笑顔は怖いくらい美しかった。
その日以降、私は母なしでやっていくための準備をするのに忙しかった。
それで、いま岩倉に話しかけられているのにも気づかなかった。岩倉というのは、週三で来てカタ焼きそばを頼む私の同級生だ。
「サキ!おい、サキ!無視するなよ」
「へ?ああ、まだいたの。もう店閉めちゃうから帰ってくれる?」
お客さんは岩倉しか残っておらず、母は後片付けをしていた。
「あのさ、俺、やっぱりサキのこと、好きみたい、なんだよね。だから、あの……結婚を前提に付き合ってもらえないかな?」
「な、何言ってるのよ、ここ店の中よ?」
「だってお前、いつも時間ないって話聞いてくれないじゃん」
母がいつのまにか近くまで来て岩倉に聞いた。
「あなた、仕事できるの?」
「は、はい。こう見えて優秀な方です、同期の中では」
「ふーん。サキちゃん、どうするの?」
母が試すように聞いてくる。
「どうするのって……ちょっと」
「ちょっと、なんだよ」
バカ岩倉。なんで店でこんなこと言い出すのよ。
「ちょっと……考えさせて」
「え、考えてくれるの?やった!考えて考えて!いっぱい考えて」
はしゃぐ岩倉に少しイラッとしたが、それよりも背中でニヤニヤしているに違いない母を思うと一層イライラした。
でも、なんかこういう、肩の荷が軽くなるような卒業も、あっていいのかもしれない。
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※シロクマ文芸部に参加しています
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