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コロナウイルスと逆転写: 米国科学アカデミー紀要に掲載された論文から

コロナワクチンに関して「逆転写」の話題を時々見かけます。コメント欄を見ても興味を持たれている方が多いようです。「mRNAは核には入らないのでRNAワクチンは安全だ」または「RNAワクチンが逆転写されて染色体に挿入される事などまずありえない」という声も聞きますが、果たして事実でしょうか。結論から言えば、必ずしもそうとは言えないのです。今回から3回に渡ってはその逆転写についてのお話です。

まず、一人の人間を構成する細胞数は何十兆個というレベルになります。またRNAワクチンに含まれる脂質ナノ粒子の数も膨大です。それぞれがすでに天文学的数字です。スパイクタンパクのRNAが逆転写されたものが、その天文学的な数の中のたった数個の細胞のゲノムにでも取り込まれて、その細胞が免疫の監視を免れて生き残るとすれば、大きな問題となる可能性があります。「すべての細胞でRNAワクチンが効率よく逆転写されゲノムに取り込まれる」といったような極端な事を言いたいのではありません。すでに世界中で数十億人が接種しているRNAワクチンです。その中で実際どれほどの人数にどの程度の頻度でRNAワクチンがゲノムに取り込まれる事態が起き得るのか、という話です。

逆転写されてゲノムに取り込まれる代表的なウイルスがレトロウイルスです。ゲノムへの遺伝子導入にしばしば使われるレトロウイルスベクターはレトロウイルス由来のものです。ベクターは外来遺伝物質を別の細胞に人為的に運ぶために利用されるDNA (またはRNA) で、分子生物学や細胞生物学で汎用されます。レンチウイルスベクターはレトロウイルスベクターよりも新しい世代のベクターで、HIV (human immunodeficiency virus、ヒト免疫不全ウイス)  ゲノムから作られています。レンチウイルスはHIVを代表とするレトロウイルスの一種です。

HIVは核膜を越えるための特別なタンパクの tatを持っており、レンチウイルスベクターはtatを使って核膜を乗り越えてゲノムに感染します。レトロウイルスベクターは核膜を乗り越えるタンパクを持ってはいませんが、ゲノムに感染できます。それはなぜでしょうか?ヒントはレンチウイルスベクターは増殖しない細胞にも感染できるが、レトロウイルススベクターは増殖中の細胞にしか感染できないという事です。

実は細胞増殖の途中に「核膜が無くなるタイミング」があるのです。細胞周期とは1つの細胞が2つの娘細胞を生み出す周期の事です。1つの細胞周期の間にゲノムDNAの複製と娘細胞への分配が起こります。細胞周期は、G1期 (間期1) -> S期 (染色体複製期) -> G2期 (間期2) -> M期 (分裂期) というように進行します。M期に染色体が凝縮し、反対側の極に引っ張られ、半分ずつ2つの娘細胞に受け継がれます。このM期には核膜が崩壊し、一時的に消失します。レトロウイルスベクターはこの核膜消失時に核に侵入し、そしてゲノムに挿入されます。M期に核膜が消失するという事は生物学の基礎知識でもあります。

RNAワクチンが逆転写されてゲノムに取り込まれる事はあり得るのでしょうか。ワクチンではないのですが、コロナウイルス自体のRNAゲノムがヒト細胞由来の逆転写酵素によって逆転写されてゲノムに挿入される事はあるようなのです。

以下、米国科学アカデミー紀要に掲載された論文の要旨です。この研究はマサチューセッツ工科大学 (MIT) のJaenischのグループによるものです。

逆転写されたSARS-CoV-2のRNAは、ヒト培養細胞のゲノムに組み込まれることがあり、患者由来の組織でも発現することがある。
Reverse-transcribed SARS-CoV-2 RNA can integrate into the genome of cultured human cells and can be expressed in patient-derived tissues
Zhanga et al. Proc. Natl. Acad. Sci 2021
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/33958444/
COVID-19から回復した患者において、重症急性呼吸器症候群コロナウイルス2(SARS-CoV-2)RNAの検出が長期化したり、PCR陽性検査が再発したりすることが広く報告されているが、これらの患者の中には感染性ウイルスを排出していない者もいるようだ。我々はSARS-CoV-2のRNAが逆転写されて培養中のヒト細胞のDNAに組み込まれ、組み込まれた配列の転写が患者に見られるPCR陽性反応の一部を説明する可能性を検討した。この仮説を裏付けるように、我々はSARS-CoV-2の配列のDNAコピーが、感染したヒト細胞のゲノムに組み込まれることを発見した。我々は挿入部位において、ウイス配列に隣接する標的部位の重複とLINE1エンドヌクレアーゼ認識のコンセンサス配列を見つけたが、これはLINE1レトロトランスポゾンによって標的を起点とした逆転写とレトロポジションが行われたということを意味する。また、いくつかの患者由来の組織では、ゲノムに組み込まれたウイルス配列のDNAコピーから大部分のウイルス配列が転写され、ウイルスと宿主のキメラ転写産物を生成していることを示唆する証拠が見つかった。このように、ウイルス配列のゲノムへの挿入と転写が、感染後や臨床回復後の患者におけるPCRによるウイルスRNAの検出に寄与していると考えられる。今回検出されたのは宿主細胞のDNAに組み込まれたウイルスゲノムの主に3′末端に由来するサブゲノム配列のみであるため、組み込まれたサブゲノム配列から感染性ウイルスが生成されることはない。



では、ヒトは逆転写酵素を持っていないのでしょうか。決してそんな事はありません。逆転写酵素の由来の多くはレトロウイルスやレトロポゾンです。

トランスポゾンは細胞内においてゲノム上の位置を転移することができる塩基配列です。動く遺伝子、転移因子とも呼ばれます。トランスポゾンの中にはDNAとして転移するものもあれば、RNAに転写されたものをさらに逆転写する事により転移するものもあります。これがレトロポゾンです。ヒトのゲノムにも古代に寄生したレトロポゾンがたくさん残っています。多くのコピー数を持つものがLINE (long interspersed nuclear element, 長鎖散在反復配列)です。実際ヒトLINE1の量はヒトゲノムの約17%をしめるほどです。また、レトロポゾンの中には自前の逆転写酵素を持たないAluなども含まれます。

誤解を恐れずに言えば、ヒトゲノムは逆転写酵素遺伝子だらけです。例えば上記のLINE1が逆転写酵素遺伝子を持っているからです。もっとも、ほとんどの逆転写酵素遺伝子は進化の過程で壊れてしまっているのですが、中には機能を維持しているものも存在します。普段は転写抑制によって眠っているものもあれば、RNA干渉によって転写産物が特異的に壊されている場合もあります。こうした抑制が細胞の非常時には解除されてしまう事があるのです。

内在性のLINE1は、老化したヒト組織で発現している事もあれば、がん細胞で発現する事もあります。また、ウイルス感染によってLINE1の発現が上がる事もあります。水胞性口内炎ウイルスやリンパ球性絨毛膜炎ウイルス (LCMV) などの非レトロウイルス性RNAウイルスは、内在性 (ヒト細胞由来) の逆転写酵素によってDNAに逆転写され、ゲノムに組み込まれる事もあります。

大事な論文ですので、最先端の技術的な事も説明しながら引き続き紹介していきます。



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*記事は個人の見解であり、所属組織を代表するものではありません。





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