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騙す事、騙される事

伊丹万作 (1900年 (明治33年) - 1946年 (昭和21年)) は日本の映画監督、脚本家、俳優、エッセイスト、挿絵画家です。映画監督の伊丹十三は万作氏の長男です。以下、伊丹万作氏のエッセイから一部を引用させていただきます。


さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。


騙した人は誰なのか?

日本においてコロナワクチン接種はすでに7回目まで行われており、まもなく8回目が始まろうとしています。しかし、ここに至るまで途中で接種をやめた人も少なくありません。その理由としては、「周りが接種をやめたから」「副反応が辛いから」「なんとなく」といった人もいるでしょうが、ある時点でコロナワクチンの効果に疑いを持ち始めたり、ワクチンの毒性自体に気付いた人もいるでしょう。そして自分が「騙された」事に気が付いた人もいるのではないでしょうか。では、「騙した人」そして「騙された人」とは一体誰なのでしょうか。

日本ではコロナワクチン接種事業を推進するため、「思いやりワクチン」「大切な人を守るために」などといったキャッチフレーズが巧みに利用されました。一見もっともらしく、聞こえの良い言葉です。そして「コロナワクチン接種は利他的な善行であり、従わない者は利己的な人間である」という空気が醸成され、未接種者には物理的な行動制限等だけではなく心理的にも強い圧力がかけられました。メディアのこうした言葉を信じて律儀にワクチンを接種した人はおそらく単に「騙された」のかもしれません。しかし今度はその人が他者にワクチン接種を求めたならば、事実上その人自身も騙す側に加担した事になります。伊丹万作氏のエッセイにあるように、「騙す人」と「騙される人」とは単純に分けられるものではないのかもしれません。騙された人が次の瞬間には騙す側にもなり得るからです。また、騙す事と騙される事とは互いにねずみ算的に増加し得ます。これは騙された者が騙す行為に加担するという負の連鎖であり、単純な二者の対立の話ではありません。

権威に従って行動する人々は別段「悪事」を働こうとしているわけではありません。むしろ正義感を持って従い、善行と信じ行動しています。そしてその事こそが悲劇とも言えるのです。


凡庸な悪

『エルサレムのアイヒマン──悪の凡庸さについての報告』(Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil) は、ハンナ・アーレントが1963年に雑誌『ザ・ニューヨーカー』に連載したオットー・アドルフ・アイヒマンの裁判の傍聴記録です。

彼は愚かではなかった。完全な無思想性―――これは愚かさとは決して同じではない―――、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした素因だったのだ。このことが〈陳腐〉であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してもアイヒマンから悪魔的な底の知れなさを引き出すことは不可能だとしても、これは決してありふれたことではない。

アイヒマンは第二次世界大戦時に数百万人のユダヤ人を強制収容所に移送する際の指揮的役割を担った国家警察の長官でした。しかしアーレントは、アイヒマンを冷酷で極悪非道な人格異常者などではなく「真面目に職務に励む」平凡で小心な一介の公務員であったと評しています。

この事から、「アイヒマンをはじめとする戦争犯罪を行ったナチスの戦犯の多くは特殊で異常な人物であったのか?それとも結婚記念日には妻に花束を贈るような普通の愛情を持つ平凡な市民に過ぎず、一定の条件下では人間は誰しもあのような残虐行為を犯すものなのか?」という疑問が提起されました。


ミルグラム実験

「ミルグラム実験」とは、イェール大学の心理学者スタンレー・ミルグラムによる「閉鎖的な状況において権威者の指示に従う人間の心理状況についての実験」です。この実験は、アイヒマン裁判 (1961年) の翌年に上記の疑問を検証しようと実施されたため「アイヒマン実験」とも呼ばれます。

実験参加者は、「この実験は学習における電気ショックを使った罰の効果を測定するものである。」と最初に説明されます。そしてくじを引かされ「教師役」となり、ペアを組むもう一人の実験協力者が「生徒役」となるようにセッティングされます。しかし実は教師役だけが真の被験者であり、生徒役は役者が演じるサクラで、実際には生徒役は電気ショックを受けた演技をするというものでした。つまり教師役である被験者には実験の本当の目的は知らされていません。電気ショックは45ボルトから始まり、教師役は生徒役が解答を間違えるごとに15ボルトずつ電圧を上げていくように指示されます。生徒役の反応は実際に拷問を受けているかの如く絶叫しもがき苦しむものであり、とても演技とは見えないものでした。具体的には以下のようなものです。

75ボルト:不快感をつぶやく
120ボルト:大声で苦痛を訴える
135ボルト:うめき声をあげる
150ボルト:絶叫する
180ボルト:痛くてたまらないと叫ぶ
270ボルト: 苦悶の金切声を上げる
300ボルト: 壁を叩いて実験中止を求める
315ボルト: 壁を叩いて実験を降りると叫ぶ
330ボルト: 無反応になる
(以降は最大の450ボルトまで無反応状態のまま)

そしてもし教師役である被験者から「実験を中止したい」という意思表示がなされた場合には、「権威ある博士 (らしく見える男)」が以下のような言葉で続行を促します。「 続けてください。」「実験を続けてください。」「絶対に続けてください。」「他に選択肢はない。あなたは続けなければならない。」「相手の体に後遺症を残す事はありません。」「責任は我々が取ります。」

教師役であるどの被験者も、電気ショックを与えられもがき苦しむ生徒役の姿を見て、ボルト数が上がるにつれ実験自体に不安と疑問を抱き始めました。中にはわずか135ボルトの時点で実験の意図そのものを疑い出した者もいました。また他にも実験中止の希望を管理者に申し出、「この実験のために自分に支払われている金額を全額返金しても良い」という意思表明をする者も現れました。しかしその際に「権威ある博士 (らしく見える男)」の口から「あなた達はこの実験の一切の責任を負わない」と伝えられると、ボタンを押す事を再開し、結果として全員が300ボルトまでの電気ショックのボタンを押しました。 

最終的な実験結果は、教師役である被験者のうち40人中26人 (統計上65%) が最大電圧であり命の危険がある450ボルトまでボタンを押し続けた、という驚くべきものでした。そして残りの35%の人は「権威」の言葉にも関わらず、段階の差はあれど450ボルトに至る前にはボタンを押す事を拒否しました。

この実験結果は、ごく普通の平凡な市民であっても権威の後ろ盾や大義名分があれば、他者に対して残忍な行為や苦痛、それどころか死を与える事すらためらわなくなるという心理を如実に示すものでした。このような現象を「ミルグラム効果」とも言います。ミルグラムは、1974年の論文「服従の危険性」でこの実験を次のように要約しています。

実験科学者の命令という絶対的な権威と、被験者 (参加者) の他者を傷つけてはならないという強い道徳的義務が対立し、被験者 (参加者) の耳には被害者の悲鳴が響き渡る中、権威が勝つことがほとんどでした。権威者の命令であれば、大人がどんなことでもほとんど厭わないという極端な傾向が、この研究の主な発見であり、最も緊急に説明を必要とする事実です。一般の人々は、単に自分の仕事をこなしているだけで、彼らに特別な敵意がない場合でも、恐ろしい破壊的プロセスの一端を担うことになる。さらに、彼らの仕事の破壊的影響が明白になり、道徳の根本的基準に反する行動を取るよう求められても、権力に抵抗する手段を持っている人は比較的少ないのです。


このように、実に65%の人間が450ボルトまでボタンを押し続けたという結果は非常に衝撃的なものです。しかし同時に「35%の人間が段階の差はあれど450ボルトに至る前にはボタンを押す事を拒否した」という事実も忘れるべきではないと私は考えます。

ところでこのミルグラム実験の結果は、もともと個人主義の傾向が強い米国で出されたものです。ではもしこの実験が現在の「日本」で行われたならば、どれ程の割合の結果となるでしょうか。さらに問うならば、「日本の医療従事者」を対象として実験が行われたならば、この割合は一体どのようなものになるのでしょうか。

地獄への道は善意で舗装されている

さて、メディアや権威を信じ、事実上世界一コロナワクチンを打ち続け、世界一マスクをし続け、にも関わらず世界一の感染爆発を起こし続けている日本の現状について我々は何を思うべきなのでしょうか?

コロナ騒動を通して日本では深刻な超過死亡が生じ、その傾向は今も現在進行形で続いています。日本国民の超過死亡は2024年前半の時点で実に60万人もの規模に及びます。さらに健康被害を受けた人の数はその何倍、何十倍にも及ぶ可能性があります。これらの被害者の多くはコロナワクチンによるものと私は考えています。亡くなられた数十万人の命に責任があるのはワクチン接種事業に携わった者やそれを推進した者です。

人体への毒性の高い遺伝子製剤が「ワクチン」の名目で膨大な数の健康な人々に接種されました。遺伝子製剤の大量接種など人類の歴史始まって以来初めての出来事です。そもそも空気感染するウイルスはマスクやソーシャルディスタンスなどのような手段では防げません。にも関わらず感染対策の名目で行われたこれらの政策は人間同士の健全なコミュニケーションを阻害し、とりわけ子供達の成長に対して深刻な禍根を残しました。実際、一般人がコロナ対策としてできる事などというのは、基本的に風邪対策と同じものです。毒性の高い遺伝子製剤も新薬も必要ありません。果たしてこうしたものに言葉の通り「己の健康と命を賭ける」価値など本当にあったのか?という事を改めて問い直す必要があるでしょう。

「地獄への道は善意で舗装されている。(The road to hell is paved with good intentions.)」

これは欧州のことわざで、第2回十字軍を推進したクレルヴォーのベルナルドゥスが「地獄は善意や欲望で満ちている」("L'enfer est plein de bonnes volontés ou désirs") と書いた史実が由来となっています。一般的な解釈としては「悪事または悪意は善意によって隠されている」あるいは「善意でなされた行為であったとしても、その実行により意図せざる結果が招かれる」というものです。コロナ騒動を振り返り、この言葉の意味を改めて思い起こさざるを得ません。


コロナ騒動とお金

国民は「思いやりワクチン」「大切な人を守るために」といった言葉に誘導され、互いを監視し合い、公衆衛生の名の下にコロナワクチン未接種者を追い詰め弾圧してきました。その様相は、あたかも戦時中の「非国民」と呼ばれた人々に対する扱いと言っても過言ではないほどに異常なものでした。事実上、集団心理と同調圧力を利用してコロナワクチン接種事業は国民の末端まで推し進められました。しかしながら、その事業に全員が見返り無く関わったというわけではありません。

実際、コロナ騒動を巡っては巨額のお金が動きました。まずファイザーやモデルナといった製薬企業に資金が流れ、またその一部は製薬企業をスポンサーとするマスメディアに流れ、さらには感染症対策の名目で莫大な金額が医療機関に流れました。コロナワクチンを認可する規制当局がそうした資金の流れと無縁であったとは考えにくいでしょう。

日本においては、コロナ政策の舵を取ったのは政府であり、接種事業を推進したのは厚生労働省を起点とした行政であり、実際に現場で人々にコロナワクチンを接種したのは医療従事者です。そして接種を積極的に推進したのはテレビや新聞を中心とするメインストリームメディアです。また、SNS上などのインフルエンサーの中には、資金提供を受けてワクチン接種をPRしていた人もいるでしょう。


一方的に騙した人はいたのか

実際このコロナ騒動を通して、多くの人が騙し騙される事に関わってきました。伊丹万作氏は、騙された人が騙す行為に加わるという連鎖のピラミッドの中ではほとんどの人が騙す側であると考察しています。しかしながらこの点において、私は氏と考えが若干異なります。お互いに騙し騙される現象が連鎖的に成立するピラミッドがあるとすれば、その頂点には一方的に騙した人達が存在してもおかしくないというのが私の考えです。

国民へのコロナワクチン接種を推し進めてきた厚生労働省には今回の甚大な規模の薬害に対する大きな責任があります。国が責任を持って国民に公開すべき事の一つは「厚生労働省のそれぞれの立場にある者のコロナワクチン接種歴」であり、彼らが実際に何回まで接種しているのかをぜひ公開してほしいと願います。またそれに加えて接種したショットのロット番号が虚偽なく公表されたならば、彼ら自身も騙されていたのかどうか、あるいはどこまでの立場の人間が騙す側にあったのかを知るヒントとなるのではないでしょうか。

「全責任は私が引き受ける」と豪語した河野太郎ワクチン担当大臣は結局のところ何の責任も取ろうとしはしていません。国会議員の中にもワクチンを接種し、後遺症を患う人もいるという話も耳にしました。同様に全国会議員のワクチン接種回数及びロット番号の情報が公開されたならば、特定の政党や特定の立場の議員の中に一方的に騙す側の人間がいたのかを判断する材料になるのではないでしょうか。

集団心理を反転させるために

仮に自分自身の所属する組織が人道に反する行為を行なっていた場合、「真面目に」職務に取り組む事自体がその行為に加担する事に繋がるでしょう。権威に逆らうという事は大多数の人間にとっては簡単な事ではないのかもしれません。けれどもミルグラム実験においても、最終的には35%の人が権威からの指示にも関わらず、段階の差はあれど実験の途中でボタンを押す事を拒否し、他者に危害を及ぼす行為から離脱しました。つまり35%の人間は、権威の言葉ではなく己の良心に従って自分自身の行為に対する最終的な決断をしたという事です。

コロナ騒動に始まった「mRNAワクチン騒動」はまだ終わっていません。それどころか、この先さらに姿を変えたものが控えているのです。コロナワクチンのDNA汚染問題は図らずもmRNAワクチンそのものが持つ不可避であり致命的な欠陥をあらわにしました。DNA汚染はコロナワクチン接種者に発症する悪性の癌の一因と考えられます。にも関わらず、現在も様々なワクチンのmRNA化が進められつつあり、癌mRNA製剤の事業は巨大マーケットとしてさらに拡大されようとしています。そして日本ではレプリコンワクチンが目前に迫っています。今後これらの薬害によって犠牲になる健康や命がどれほどの規模に及ぶかはもはや予測がつきません。

日本国民を対象としたレプリコンワクチン接種が目前に迫る中、草の根の活動も広がっています。SNSなどの情報が届かない人達にも情報を伝えるために、たくさんの人が街頭でコロナワクチンを含めたmRNAワクチンの危険性を伝えようと尽力されています。多くの人が自分自身や身の周りの人々がmRNA製剤によって健康を傷付けられ、また命すら落とすという経験を経てきました。コロナワクチンの危険性について耳を貸す人などほとんどいなかった以前と比べて状況は変わりつつあるようにも見えます。

コロナ騒動の始まりに集団心理があるのなら、騒動を終わらせるには集団心理の転換が必要なのです。ワクチン接種を強要するために働いていたはずの集団心理も臨界点を越えれば雪崩を打つようにひっくり返り、この騒動を終わらせるための大きな力となり得ると信じます。



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*記事は個人の見解であり、所属組織を代表するものではありません。



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