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すべからく『愛』を謳え 第十五話『疾走』

すべからく『愛』を謳え  第十五話  『疾走』


   女は、怒りに打ち震えていた。
   女は、寂しさに打ちひしがれていた。
   女は、哀しみに暮れていた。
   女は永い時の中で、それらの負の感情を背負い、引き摺り続けてきた。そしてそれらを堆積し、増幅させ、そして拡散させてきた。
   それが女の使命、それだけが女の存在価値であり、意義。
   永きに渡り『苦しみ』続けてきた女は、これからも苦しみ続け、そして関わる者全てを『苦しませ』続ける。それは死して尚、否、死してより明確に鮮明になり、身を焦がす程の業火が女を包み込む。それは皮を剥ぎ、肉を炙り、骨ごと灰塵に帰すかの如く、容赦なく女を燃やし続ける。
  そこには、生前の女の人となりや、善行、不遇や悲哀などを思いやる恩赦など皆無。永遠に女を灼熱の炎に閉じ込める。
   もはや生在りし日の記憶など、熱波の果てに灰と化した。残りしものは生きとし生ける者への怒りと憎しみ、そして何者でもないという、永遠の孤独。
   その苦しみから逃れる術は、生きし者の魂を喰らうことのみ。それも己と同じ、怒りと憎しみ、恐怖と絶望にまみれ、呑み込まれた魂のみ。それを喰らうことで、女は刹那の恍惚に包まれ、女の周りに燃え立つ業火は、より一層の激しさを増す。
   そのとこしえの苦業の中で、女は数多の魂を喰らい続けてきた。また、それを成し得る為に、生きし者を傀儡とし、己の欲望の為の手足とした。
 そしてその傀儡もまた、歪んだ欲望にまみれ、俗世とは隔たりのある者ばかり。
   いつの時代にも、間引かれた異種が存在し、それらは淘汰されるまでの間、歪な轍を世に残し続ける。
   そしてそれらの異種は導かれるようにして、女へと流れ着く。世の理よりはじかれた両名は、互いの欲望の為に、支配と依存へとその身を投じる。そして理を逸脱し、人知れず負の波動を、増殖・拡散させる。
  そう、女と藤本はまさにその関係にあった。
  泣き叫び、絶望の果てに失墜する魂を喰らう為に、妄想と現実の狭間でほくそ笑む藤本に、女は目をつけた。
   彼の利己的な性格と、都合のいい解釈、そして腐れても枯れる事は無い精神力は、まさに傀儡に相応しい逸材。常に自分を中心に世界が周り、己が『愛』の奉仕者であり、伝導者である事を信じて疑わない自己陶酔ぶりは、女よりも遥かに深くて陰湿。
   女は藤本の娘への『愛』を利用する。
   自分が娘の姿となり、彼の近くに居る事で、互いの利害が一致する。そして普遍的で理想的な共依存関係が、ここに成立するのであった。

  しかし、そこに予期せぬ一本のノイズが入った。
   そのノイズに刻まれた雑音は、女と同じ波動を持った永遠の孤独と、癒えぬ『渇き』。されど、その音に耳をそばだてれば、女とは似て非なる亜種の怨念に過ぎなかった。
   女は生きし魂を、それは世に未練を残した怨念を喰らう、言わば乞食か残飯漁り。そしてそれは生きし者、傀儡の中に閉じこもり、その身を隠していた。まさに弱き者の成れの果て。もはや格が違う。同等に語るなどもっての外。
 
   しかし。
    それは、全てを燃やし尽くすかのような業火を湛えながら、女の前に立ちはだかった。
   放置するには看過出来ない程に、女にとってそれはまさに騒音だった。 共鳴し合う孤独はさておいて、排斥しなければ、女にとって邪魔になる事は必至。
   女はそれの前に敢えて姿を顕にし、常人であれば精神が崩壊するほどの地獄絵図を、その傀儡に流し込んだ。傀儡が使い物にならなければ、それとて何も出来ぬはず。もはや女を邪魔立てするものはない。
  今宵は憎しみと裏切りに焼かれた魂と、度重なる不遇に打ちひしがれた魂の饗宴。
   彼女の中の芯が、業火とは違う熱を帯び、そして逆巻く炎の中で、染み出す程に、淫らに濡れすぼっていた。


     

「…どこ?…ここ……」

    幹恵は、すえた獣の匂いの中、目を覚ました。
    周囲は仄暗く静まり返っていた。そして視界には無数のゴミ袋と煤けた天井が映りこんだ。
   「目が覚めましたか?」
    背後で誰かの声がした。ハッとして背中に意識を集中させると、人肌に温かい何かがそこに触れていた。
「誰?  誰かいるの?  ここはどこ?」
「静かに!   少しでも大きな声を出せば、男が飛び込んで来ます!」
   その声に、幹恵は息を潜め、一瞬だけ周囲は静寂に包まれた。
   幹恵は起き上がろうとしたが、手足が縛られており、動けない事に気が付いた。それに伴い、現在に至る迄の記憶が、少しずつ氷塊していく。
    そう、彼女は、あの男に捕らえられたのだ。その証拠に、腹部に未だに痺れるような痛みが残っている。
    あの男は自分をどうしたいのか?
    それを思っただけで、大声で叫びそうな恐怖を覚えた。
「気をしっかり持ってください!  必ず私たちは助かります!」
   背後からまた声がした。声からして、自分よりも若い女性のようだ。


   さおりは後から連れて来られた女を諭すように、ゆっくりと言葉を選びながら、務めて優しく声を掛けた。背中からはその女が震えているのが、痛い程に伝わってくる。
   とにかく冷静に。希望を捨てない。生き残る事。
   その三つを自分に言い聞かせながら、彼女も叫びたくなる衝動を必死に堪えていた。


「時間だ!」
  急にドアが開き、あの男が入り込んで来た。
「幹恵……いつまでもお前は綺麗だ……夫として鼻が高いよ……」
   男は鼻息荒く、ゴミ袋を掻き分けながら幹恵の元へ駆け寄って来た。
   幹恵は積年の憎しみを顕にして、男を睨みつけた。
「その気の強いところもまた……茉里子とそっくりだ……さすがは親子。僕が愛しただけはあるいい女だ……」
   さおりに対する態度とは雲泥の差で、男は幹恵の体を舐めるように視姦する。
  幹恵は罵声をあげようとしたが、舌がもつれ、何をどう言葉にすればいいのか分からず、それは声にならなかった。しきりに睨みつけるだけで精一杯だった。
「さあ、行こう!」
  男は幹恵の洋服の襟首を掴むと、力任せにそのまま彼女を引き摺りながら、部屋を出ていった。
   幹恵の唸り声が虚しく壁越しにこだまする。
  そして間もなくして、またドアが開いた。
「お前もだ!  来い!」
   男は幹恵同様にさおりの襟首を掴み、そのまま引き摺って行く。彼女はなされるがまま、抗わずに成り行きに身を任せた。

  二人はダイニングに通され、床に寝かせられた。
  床には大量の握りつぶされたビール缶が転がっており、麦汁の臭いがへばりついていた。

「茉里子、さあ、始めようか?」
  幹恵は藤本の声に、目を見開いた。
  藤本の隣には、黒いドレスを身に纏った茉里子がうっすらと立っている。
     幹恵は唖然として、その姿に見入る。するとその姿はより鮮明になり、在りし日の茉里子そのものとなった。
   肌の色艶や、小首を傾げる仕草、口角を上げるだけでほのかに浮き出るえくぼ、全てが茉里子そのものだった。
「茉里子……」
  幹恵はやっとの思いで、その名前を声にした。
「おかえり……」
  茉里子は幹恵の視線に気付くと、茉里子の声でそれに応えた。その声と表情は幹恵の知っている茉里子より、少しだけ大人びて思えた。
  茉里子はゆっくりと幹恵に近づき、そっと彼女の首元に手を添える。すると、幹恵は縛られた身体のまま、するすると宙に浮きあがった。
「茉里子!  何をするの?  ね!  やめて!  その男の言う事を聞かないで!ね!」
  幹恵は茉里子を見据えて懇願する。
  しかし、茉里子は悪戯を微笑むと、後ろに後ずさりって藤本に抱きついた。そして彼の耳元に唇を這わせると、大きく口を開いて、彼の耳や頬を執拗に舐めまわした。恍惚の表情を湛えた藤本の顎に指を添えると、彼の顔を自分の方に寄せ、したたかに唇を重ね合わせた。
「パッパ、大好き……」
 熱い吐息混じりにそう呟き、挑発するかのように 幹恵の目を見据えながら、藤本の唇を愛撫する茉里子。     その唇の端からは、混じり合い白濁した二人の唾液が、床に滴り落ちた。

「やめて!  やめて! お願いだから!  茉里子!お願い……」
   幹恵はこの世の中で一番見たくなかった光景を、今、見せつけられていた。
   諸悪の根源であるあの男と、淫らな接吻を交わす愛娘。その光景だけは、自分が辱められる以上に受け入れられなかった。ましてや無理やり嫌がるどころか、自分から誘惑して、嬉々としてそれに講じている。『有り得ない!  そんな事ありえない!』
  幹恵は心の中で何度もそう叫んだ。
「お母さんも一緒にシよ……」
  幹恵の心の声に応えるように、茉里子は彼女の胸の内を逆撫でする。

  そして茉里子の視線は、さおりにも向けられる。
「あなたは私の叔母さんになるの。嬉しいでしょ?  私たちの『家族』になれるのだから……」
  藤本と舌を絡ませながら、器用に言葉にする茉里子。
  その途端、さおりの身体も宙に浮かび始めた。
  迫り来る脅威に、さおりは唇を噛み締める。
『大丈夫!  絶対に助かる!  生きて帰る!』
  さおりは必死に何度もそう、心の中で叫んだ。
「それはどうかしら?  あなたには違う苦しみを……一生背負って生きなさい……」
  茉里子はそっと藤本から唇を外した。
  すると藤本は目を見開いて、さおりの方へとその目を向けた。
  さおりは藤本の視線に釘付けになった。
  藤本の瞳はみるみるうちに漆黒に染まり、そして眼球そのものまでが漆黒の闇に包まれた。
    そして藤本は徐にズボンとパンツを脱ぎ捨て、毛むくじゃらの下半身を顕にさせた。
「パッパ……好きにしていいよ……」
  茉里子が囁くと、ビール缶を蹴散らしながら、藤本はさおりへと走って行った。そして彼女を壁に押し付けると、顔や腕を舐めまわし、胸元を忙しくまさぐり始めた。
「い! 嫌!」
  さおりも恐怖のあまり、叫び声をあげる。
  「ああああ……」
  その叫びを聴いて、茉里子は感嘆の喘ぎを漏らす。
  そしてニヤリと微笑むと、
「大切なものを汚される哀しみ、植え付けてあげるわ……」
   そう呟いて、茉里子は目を瞑った。



杉本茉里子
   聡太郎は走った。
   彼の熱い左手、紅く染まる瞳が、彼を焦燥感に駆り立てる。そして、目の前には幹恵の娘、茉里子もいる。彼女の先導のもと、藤本という男の元へと走り続ける。

   彼は茉里子の声を聞いた。
   彼女の想いを知り、それに共感をした。
   そして彼女の未練、最後の願いを聞き入れる。

   茉里子は彼の中で、こう告げたのであった。

  茉里子は母親幹恵と、父親だった男との家を追い出された後、程なくして何不自由ない暮らしに落ち着いた。しかしあまりものその都合の良さに、彼女は違和感を覚えた。
   追い出された当初、失意のどん底にあった母親。
  そして、狭いホテルの一室に数日間泊まり続けたが、どうにも金が回らず、一時期駅の構内や深夜まで営業している居酒屋等で、夜を明かした事もあった。      茉里子自信、状況が逼迫していることは子供ながらに感じ取っていた。しかしながら、必死に彼女を守ろうとする幹恵の顔を見ると、悲しい顔だけはしまいと、自ずと自分を律するのだった。また、それ以上に、大好きな母親とずっと一緒に居られることが、彼女にとってはいちばん嬉しかった。

   しかし気が付けば、以前の家とは比べ物にはならないが、快適で何不自由ない暮らしが、彼女を取り包んでいた。
   そして、常に母親幹恵の周りには、見知らぬ男性が入れ代わり立ち代わり、必ずや存在していた。
  鳴り止まぬ電話やメッセージの着信音。その一つ一つに甘い声と言葉で返す幹恵。それに呼応するように、幹恵は外出が多くなり、朝帰りをする事も少なくなかった。
『行かないで……』
   その気持ちを、勇気を振り絞って言葉にしたが、
「そんなわがまま言わないの!  夜中には帰ってくるから、ちゃんとお利口にお留守番してるのよ!」
   そう言って背中を見せる幹恵の姿が、いつの間にか彼女の瞼に焼き付いてしまっていた。

   そんな中、彼女はとある男と出会った。
  その男こそ、藤本だった。
  彼は自らをパッパと自称し、彼女が好きなお菓子やアニメのキャラクター、ゲームや音楽を熟知していた。そして彼はそこはかとなく優しかった。
  彼女のわがままを全て聞き入れ、欲しかった玩具や行きたかった場所へ、嫌な顔一つせずに買って、連れて行ってくれた。
   そして彼はずっと彼女のそばで微笑んでくれる。
   寂しさに暮れる彼女の心の隙間に、彼はそっと寄り添ってくれる。その優しさに、彼女は徐々に心を許していくのだった。
    そして長い年月の間、藤本との逢瀬は続き、二人は本物の親子のように、互いに自宅を行き交うほどに、その信頼と絆は育まれていった。
   一つ難点を言えば、二人の関係は藤本のたっての願いで、幹恵には話さないまま続けられていた。そして彼女もそれを徹底して隠し続けた。最初は隠す事に息苦しさを感じていたが、いつしか、それには彼女なりの意図が働き始めた。
   年齢を重ねていくうちに、藤本の本性というか、性格が見え始めたのだ。彼女自身、藤本の粘着質で都合のいい解釈や、自己中心的な考え方に違和感を覚え始めていた。
    それは徐々にエスカレートし、茉里子が中学に上がった時分に、その不快を極めた。
    留まる事を知らない藤本の悪癖は、彼女の私物、洗濯機の中の下着や、使用済みの生理用品などを持ち帰る迄に発展する。会ってる最中の彼は変わらずに優しい父親然としているが、目を離した隙に、その本性は即座に顕になっていった。そのあまりにもの気色の悪さに、茉里子はついには彼を問い詰めた。
「茉里子の全てを愛したくて、綺麗な所から汚れた所まで全てを愛し、受け止めたくて……それで……ごめんね……」
   などと彼はのたまう始末。
   男には秘められた性癖や、堪え切れない欲望や妄想がある事自体、中学生になった彼女もそれなりに知っていた。しかしそれを知っているのと、目の当たりにするのとでは話が違った。しかも父親同然に接していた男が、そんな所業を働くとは受け入れ難かった。
   茉里子は考えた。
  『もし、藤本の目が母親幹恵に向けられてしまったら……』
   以前程では無いが、幹恵の周りには未だ男達の影は絶えない。皆、優しい笑顔で紳士に振舞ってはいるが、心の奥底では幹恵とあわよくばと、淡くも邪な下心があるのは、茉里子にも理解出来た。それを幹恵がどう交わしているか、或いは受け止めているかはもう考えないようにしてはいるが、母親が元気でいるという事は、彼らもある一定のルールに沿って、大人として節度ある行動を取っているのだろう。
  しかし、藤本にはその理性が欠如しており、ネジが緩んだ時の本性があまりに陰湿過ぎた。もし万が一藤本が幹恵と知り合えば、きっと不快極まりない行為を彼女にしでかす事は、容易に想像出来る。故に茉里子は、幹恵にその視線が向かないように、自分にだけに留めさせようと、務めて彼に親しく接するように心掛けていた。

  そしてあの日。

「茉里子、安心していいよ。お母さんと僕との関係はもうとっくの昔に終わってるんだ。お母さんに僕が取られないように、凄く心配だったよね?  大丈夫。僕は君しか見てないし、愛しているのは君だけだよ。これからもずっとずっとずっと一緒だよ。そして、僕らは永遠になるんだよ」

   藤本は茉里子の十五歳の誕生日の日に、満を持してその本性を白日の下に晒した。
   彼は二人だけで密かに催した誕生会で、出したジュースに大量の睡眠導入剤を混ぜ、彼女に飲ませたのであった。疑いもなく口にした彼女に、徐々に迫り来る睡魔と倦怠感。意識朦朧とした刹那、藤本はその本性を剥き出しにした。
   動けなくなった彼女を抱きしめ、唇が触れるか触れないかの距離で、執拗に頬を擦り合わせ、それを身体中にくまなく繰り返す。よもや貞操を破られるかと彼女は恐れおののいたが、彼の表現する『愛』はあくまで姦通ではなかった。いや、それ以上に粘着質で終わりが無く永遠。いっその事、姦通される方が雄として動物らしくさえ思えた。
    そして彼女は何かの力によって、その身体を宙に釣り上げられた。目の前では腕組みをした藤本が嬉しそうに彼女の顔を見詰めている。
    そして彼の背後に、薄く立ち込める煙のようなものを茉里子は見た。そしてそれは激しくうねりを伴い、藤本の背後でその勢いを増していく。激しい突風がそこから溢れ出すと同時に、そのうねりは徐々に人の形を成していった。そしてそれは女性と思しき姿にまで変容し、蠢く暗闇の中から二つの目が見開かれ、茉里子を睨め付ける。と同時に彼女の首元に見えない誰かの指が添えられ、一気呵成に締め上げていった。
「パ…ッ…パ…や…めて…」
  激しい締め上げに、声にならない声で懇願するも、藤本は笑顔のまま。
「怖くないよ。パッパが着いてる。これで僕らは永遠に一緒だよ……」

   藤本の言葉を最後まで聞き取る事無く、茉里子は見えない手によって、その生命を絶たれた。

  茉里子は残された母親、幹恵が心配でならなかった。このまま天に召される訳にはいかない。
   その切なる思いが、彼女の魂をこの世に留まらせた。
   彼女が目を覚ましたのは、いつもの自分の部屋。そして彼女の周りには、のたうち回る異形の者達が跋扈していた。皆彼女と同様にこの世に未練を残し、それを乗り越えられないまま魑魅魍魎と化し、渦巻く負の波動を喰らいながら、その魂を取り留めつづけていた。
   そのあまりの醜悪な様と不快な光景に、茉里子は絶句した。その感情の機微を察知したのか、その念や怨霊達はまるで餌場の魚のように彼女に群がり、その『恐怖』に喰らいついた。
  茉里子は恐れおののき、深く動揺する。しかし、それを差し引いても母親、幹恵が心配でならなかった。
  されどその思いに気付く者などおらず、彼女は途方に暮れる。
   そう、思いあぐねいている間に、藤本が彼女の部屋に入り込んで来るのを彼女は見た。そして彼は部屋中のあらゆる場所に何かを取り付けていく。それが盗撮用のカメラである事は、彼女も容易に想定出来た。
    そして藤本の背後には真っ黒な常闇が蠢き、その中に誰かが居る事を彼女は察知した。
   茉里子はその常闇に目を凝らした。すると、まさに今際の際に見たあの目が見開かれ、その目も茉里子を凝視する。その目に射抜かれた茉里子は、硬直して動けなくなった。次第にその目からは鼻、口、顔が形成され、瞬く間に一人の女性の姿に変容した。
『!』
    その姿にまたもや茉里子は絶句した。
    その姿はまさに茉里子そのもの。
     そして、生前の茉里子同様に藤本に寄り添い、執拗に身体を寄せ付けて、茉里子自身にそれを見せつけているかのようだった。
    また茉里子は、その女の背後にのたうち回る女達の無数の影を見て取った。それら全ては身ぐるみ剥がされ、顔を失っていた。それらは哀しみと恐怖に、まるで陸に打ち上げられた魚のように、バチバチとのたうち回っていた。
『このままだとお母さんが危ない!』
  直感的に茉里子はそう確信した。
  しかし、彼女はその危険信号を発する事が出来ない。
    霊体となった今、それを誰かに伝える術もなく、ましてやこの部屋から外に出る力さえ、彼女には無かった。
   唯一、彼女の思い入れの深かった『ひみつにっき』に手を触れ、隠していた机と壁の隙間から顔を覗かせる事は出来たが、それに幹恵が気付いてくれるかは定かでは無い。
  茉里子は為す術を無くし、途方に暮れる。
 そして世間は連続婦女暴行殺人事件の報道を始めた。
  茉里子はその事件に、心なしか親密な匂いを覚えた。そして、彼女はその報道が流されるテレビに、そっと手を触れた。するとそこからは悲痛に泣き叫ぶ女性達の声が聞こえ、そしてその先に藤本と、彼女を死に至らしめた茉里子と同じ姿をした女の姿が見えた。
   茉里子に関与する事物に関しては、彼女の微弱な力でも、少なからず自身の意思が作用するようだ。それを悟った茉里子は拡散されるテレビや、インターネット、それらの情報網に自分の意識を乗せ、至る所にその思念を送り続けた。
   そして、彼女に一筋の光明が刺すのだった。
  のたうち回る女性達の思念に、耳を傾ける男が存在したのだ。そう、その男こそ聡太郎。
     茉里子は聡太郎に一縷の望みを託し、己の姿を見せる迄に至ったが、彼女の力はそれ以上には及ばなかった。周囲を取り囲む低俗な霊たちが、彼女のその力に群がり、貪りついていた為だ。それにより彼女の魂は余力を無くし、哀しみに暮れるだけの思念へと陥っていく。
   しかしながら、男は茉里子の存在を察知し、その思いを案じた。それにより、彼女は思念より魂へと昇華し、母親を思いやる本来の茉里子へと戻っていったのであった。

   そして事態は急変し、藤本は幹恵を標的にする。それを察知した茉里子は、全身全霊をかけて、聡太郎へその想いを託すのであった。



「ぐっ!  あぁあっ!」
  走り続ける聡太郎の脳裏に、とある映像が流れ込む。立ち止まり、膝を抱える程に、その映像は彼の心のうちを深く抉る。
   目を閉じた先には、背後から無理やり羽交い締めにされ、はだけた胸元から顕わになった乳房を、藤本に激しく揉みしだかれているさおりの姿があった。そしてその表情は苦痛に口許を歪めるも、時折垣間見せる恍惚とした表情が、聡太郎の心のひだを逆撫でする。

『きゃぁぁぁ!  おか……あさ……ん!』
    時同じくして、茉里子の脳裏にもとある映像が流れ込んだ。
    そこには身ぐるみ剥がされた幹恵が宙に浮かされ、その股間に貪りつく藤本の姿があった。
   いちばん彼女が恐れていた光景が、そこに展開されていた。

   二人を襲った映像は、ほんの一瞬ではあったが、十二分に二人を翻弄するに至る一撃だった。

  聡太郎と茉里子は互いに見た映像を察し、頷きあい、そして手を繋いだ。それにより茉里子の姿と意識は鮮明に、そして聡太郎は怒りの炎がより一層、彼の左手を熱くさせる。
『さおりさん!  どうか無事で!』
『お母さん!  負けないで!』
   互いに想い人の身を案じ、そして下劣極まりない藤本と、彼を手玉に取る女への怒りに、二人は打ち震えるのであった。   



つづく
   
   

   

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