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「熱帯夜」〜青森にあったとある飲み屋さんのお話

 青森県は弘前にある量販店に勤めていたのは、三十代半ばの頃だ。店のすぐ近くに、七十代くらいの婆さんが一人で切り盛りしている飲み屋があった。

 引き戸をガラガラと開けて中に入ると、氷水が入った白い発泡スチロールが傍に置かれており、その中に瓶ビールが何本か冷やされている。そしてその上には、小皿に盛られたサラダやら漬物やらが、小さな冷ケースに陳列されていた。

 ビールが飲みたい客は、発泡スチロールを開け瓶ビールを取り出し、お通しのかわりに、冷ケースからつまみが盛られた小皿を取り出して自分の席に持っていく。

 店内には、カウンター席が六つ、四人がけのテーブル席が二つしか設置されておらず、厨房の角に置かれた小さなテレビのチャンネルは常にNHKに合わされていた。

 婆さんはカウンター越しで、少し腰の曲がった小さな身体を動かしていた。しかし、その動きは実にスローモーションで料理を注文してから出来上がるまで結構な時間がかかった。

 客もその辺は了解していて、料理の出来上がりが遅いと文句を言う者はなかった。新鮮な魚介類をメインに拵えたお造り、焼物、鍋物。どれをとっても美味しく、そして何より安い。少なくとも、婆さんの料理の腕前は一流といえた。

 しかし、そうは言っても一人である。料理を作るだけで精一杯で、その他についてはかなりいい加減だった。

 まず、メニューに表示されている食材が揃っていたためしがない。

 「おばちゃん、イカ刺しちょうだい」

 「ごめんなあ、今日はイカ刺すねはんでタコ刺すで我慢すてや」

 こんな具合だ。イカ刺しとタコ刺しでは、えらい違いである。もちろん婆さんに悪気はない。そんなわけで、メニューとは名ばかりで、当日の食材はおばちゃんが好き勝手に決めていた。
 
 また、この店には伝票というものがなかった。婆さんはメモを取るということを一切しない。客が注文したメニューを頭で覚え、最後のお会計は、まるで回転寿司のようにテーブルの上にある皿や空瓶を眺めながら計算していた。

 ある日、同僚と二人で飲みに行った時の話だ。

 「大村さん、知ってますか?空瓶をテーブルの下にこっそり隠しておくとお会計の時に見つからずに済みますよ」

「本当かよ」

「ええ、間違いありません。試しに今日、仕事終わってから行ってみましょうよ」

 その日、あえてカウンターではなくテーブル席を選んで腰掛けた僕たちは、無造作に置かれた団扇を仰ぎながら瓶ビールを飲み始めた。

 真夏だった。日中から気温がぐんぐん上がり、青森にしては珍しく熱帯夜だった。

 自他共に認めるビール党だった僕たちはかなりのハイペースで瓶ビールを空けていった。そして、空瓶の半数を厨房でせっせと調理する婆さんに見つからないようにこっそりテーブルの下に置いていく。

 テーブル下の空瓶はどんどん増えていき、足元はだんだんと窮屈になっていった。

 そろそろ帰ろうかという頃になって、同僚が用を足しに席を立った。その時である。

 ガチャン!ゴロゴロゴロ、、、、

 革靴の先が触れたらしく、テーブル下に置かれていた空瓶がまるでボーリングのピンのように一斉に倒れた。

 床の上を数本の瓶ビールがコロコロとカウンター席に向かって転がっていく。都合が悪いことに満席だった店内はちょっとした騒ぎになった。

 酔いは一瞬にして吹き飛んだ。「すいません、すいません」と連呼しながら床に散乱した瓶ビールを二人で集めた。空瓶が割れなかったことだけが救いだった。

 「いや、、テーブルの上が空瓶でいっぱいになっちゃって、、止むを得ず下においたんですよ、、」

 同僚は、おさまりの悪い天然パーマをかきむしりながら、婆さんに向かって苦し紛れの言い訳をした。

 「テーブル小さぇはんでねえ。仕方ねわ」

 婆さんは目尻に無数のシワを寄せながら笑っている。結局、集めた空瓶をテーブルの上に置いてきちんとお会計を済ませた。

 「大村さん、すいません」

 店の外に出るや、同僚が申し訳なさそうに頭を下げた。

 「いや、面白かったよ」

 「そうっすね」

 「もう一軒行こうか」

 「いいっすね」

 空を見上げると満月がオレンジ色の光を放っていた。どこかでセミの鳴き声が聞こえる。闇はより深くなっていたが、気温は一向に下がる気配はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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