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🌹「テレーズデスケルウにみるキャラクター創造の極意」〜なぜテレーズは夫に毒を飲ませたのか?


 「わたしが望んでいたこと?望んでいなかったことのほうをいうほうがやさしいわ。わたしはただ人形のように生きたくなかったんです。身ぶりをしたり、きまりきった文句をいったり、いつもいつも一人のテレーズという女を殺してしまうようなことをしたくなかったんです。ねえ、ベルナール、わかるでしょう。わたしは本物でありたいと願ったんです。でもどうしてわたしがあなたにおはなしすることはこんなにそらぞらしくきこえちゃうんでしょう」
 〜モーリヤック「テレーズデスケルウ」講談社学芸文庫171ページより抜粋

 「「小説論」のなかでモーリヤックはしばしば、作中人物が作者の計画に逆らって、勝手に一人で歩き始める時、その人物は生きた人間になるのであり、小説は成功しつつあるのだと語っている。それに対し、作中人物が作者の意のままに、操り人形のように動かされる時は、人物は生きておらず、作品は失敗しているという」
 〜遠藤周作「私の愛した小説」より

 モーリヤックのテレーズデスケルウ。あらすじを文庫本裏の紹介文から借りると、「自分の夫の毒殺を計ったテレーズは、家の体面を重んじる夫の偽証により免訴になったが、家族によって幽閉生活を強いられる」。これがめちゃ簡単なあらすじ。

 ここで誰もが思うのが「なぜ、テレーズは夫を毒殺しようとしたのか」。

 夫であるベルナールはいたって常識人であり、外面を気にしすぎる嫌いはあるものの、他人から恨みを買うような人物ではない。そして、テレーズ自身も夫に対して恨み言を唱えるシーンもない。夫を軽蔑したり、冷笑したりする場面はあるにしても、だ。

 テレーズは、免訴が決定してからアルジュルーズに帰る汽車の中でこれまでの人生を振り返る。これがいわばこの物語の前半。テレーズの心理描写が延々と続くが、そこに作者の自我は全くない。一方で、地の果てと呼ばれているアルジュルーズの重暗い風景描写がテレーズの内面を読者に想像させる。というか、それをもはや超越して、風景描写がテレーズというキャラクターを強烈に立てる装置として作用している。これはすごい。

 そして、アルジュルーズに到着後、夫により、半ば軟禁状態にされてしまうテレーズは、一人部屋の中で自分と向き合う。これが物語の後半。やはり、心理描写が続くが、結局のところ、なぜ自分が夫を毒殺しようとしたのか?明確な理由は記述されていない。テレーズ自身にもその理由はわからないし、作者であるモーリヤック自身にもテレーズの心情を汲み取ることはできない。

 冒頭に引用したテレーズのセリフは、夫を毒殺しようとした理由を説明していると言えなくもないが、あまりにも弱い。むしろ、このテレーズのセリフは、「私は私を書いている作者の支配から逃れて自由に生きるのよ」といった意思表示ともとれる。

 モーリヤックは、罪を犯したテレーズを信仰によって再生させようという筋書きを当初考えていたが、テレーズ自身がそれに反発したという。

 テレーズは作者の支配から逃れ、実に生き生きとした一人の女性として物語を牽引していく。

 ❶風景描写でキャラを示す。
   ❷夫ベルナールと、義妹アンヌとの対立(これはあくまでも小説の構造として)

 この二つが元になっているとはいえ、このテレーズというキャラクターを創造した(作ったというより、まさに創ったという表現が相応しい)モーリヤックはやはり天才のひとりであると言える。

 「テレーズデスケルウ」についてはまだ書きたいことがたくさんあるのでまた後日、記事にしようと思います。いずれにしても、小説の書き方を学ぶ上でこれ以上のテキストはないように思う。例えばトルストイの「戦争と平和」を通読するのは大変だけど、「テレーズデスケルウ」ならページ数にして170ページしかない。

 今回初めてテキストとして再読してみたけれど、最後まで読んだ直後に、もう一度繰り返し読みたくなった。何度も読み返すほど新しい発見があるような気がする、、、
 

 

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