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1991年ソ連旅行(3)

 当時の中国国内旅行は苦行だったのです。移動するにもまだ当時は高速道路はないので高速バスはありません。とすると主要な移動手段は鉄道となってくるのですが、まだ改革開放の兆しが感じられない当時の中華人民共和国は、需要に対して供給が圧倒的に少なく、かつ空席をオンライン管理などしていませんので、限られた枚数の切符を求めて大勢の人民が切符売り場の前で気が長くなるほど長い行列を作るわけです。そして外国人が泊まれるホテルは限られていて、もしかしたら空き部屋があるのに面倒くさがって「没有(メイヨー:ない、或いは、ねえよー)」と言われることもあったようです。そんなわけでなんとかして楽に天津に泊まろうということで、前回で述べたように、天津外語学院に留学する人の伝手を頼ってそこの寮に泊まらせてもらおうと企んだわけです。

 天津港は天津の街からはかなり離れていて、そこの移動手段をどう確保するのかも問題だったのですが、図々しくも我々は港に出迎えに来た学院のマイクロバスに便乗させてもらって街へ移動しました。そしてメイヨーメイヨーを繰り返す寮の管理人になんとか粘って学院の寮に1泊することができました。我々のグループの中に中国語ができる方が一人いて、残りの面々はほとんど金魚の糞のようにひっついていくだけでしたので、特に私が何かしたわけではありませんが。そしてそのままみんなで引っ付いて天津名物の豚まん「狗不理」を食べに行ったのですが、どうやら注文の単位を間違えてしまったのか、大量の豚まんが残ってしまったという中国あるあるをやらかしてしまいました。

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 翌日は移動の切符を買いに天津駅に向かったのですが、私以外はみな北京に行くということで、私はぽつんと残されてしまいました。北京、上海、東北地方といった具合に行先方向別に窓口が違うのですが、東北方面の切符売り場の長い行列に完全に臆してしまい、なんだか放り出されたような気分になってしまったのです。ところがそんな時に捨てる神(失礼)あれば拾う神あり、フェリーの燕京で同じ船室だった華僑の方と偶然ここで出くわし、窮状を説明すると、では私が買ってきましょうということで、行列ではなく別のおそらく外国人用窓口の方へ出向き、今夜発の切符を入手してくれました。それからはぐれた仲間たちの行方を捜しましたが見つかりませんでしたので、これはもう完全に離れ離れになってしまったと悟り、それからは華僑の方と行動を共にしました。

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 こうしてなんとか次の目的地、瀋陽に行く手段を確保しました。ちなみに切符は一等寝台と言われる軟臥。地球の歩き方に毒されていた私は、二等寝台と言われる硬臥を利用するのが正統的な旅行という思想に凝り固まっていたのですが、早くも楽な方に日和ってしまったのです。

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