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公園遊具のなつかしさ

お茶が名産の土地の公園で見つけました。水飲み場ではありますが、急須と湯飲み茶わんの形をしていました。配色は公園らしくカラフルにしてはありますが、この水飲み場で水が飲めたら、まるでお茶なんじゃないのか? なんて勘違いできそうです。上と下の両方から出るので急須らしくなくて、それが少し残念だけど、機能はそのまま、形を急須にしたのだから、それはそれ愛敬というものでしょう。

その近くにいたリスさん、これは有名なリスさんなのか、わかりません。

リスさんはどうして公園や川の方を向いているのか? その前が道路になっているので、横断する時に気を付けましょうという意味で、子どもたちを見守ってくれているのかな。たくさん顔や背中をなでられたのか、白っぽくなっていたけれど、横断者見守りのリスさんでした。


小さい頃に遊んだ遊具に顔を描いた人がいたみたい。

うちの実家近くの公園に行ってみたら、たまたま通りかかっただけだけど、何十年も前からずっと存在している遊具に顔が描かれていました。

あれ、無表情に存在していた遊具が、とうとう意志を持って、私たちに何か語りそうでした。「もっと、みんなオレで遊んでくれよ。子どもたちはどこへ行ったんだ!」みたいな、何だか寂しそうな感じだった。うつろな目をしていた。子どもたちがいてくれたらねえ。


最近見つけた近鉄・長谷寺駅下の公園遊具たち

最後に、もっと寂しそうな遊具たちを載せてみます。遊具たちは子どもたちを待っているのに、ここで遊んでみようという子どもたちがどこにもいません。子どもたちはみんな都市に住んでいるようです。ですから、こんな田舎のさびれた観光地の公園に子どもたちはいません。

まさか、こんなに誰も利用しなくなるなんて、最初に作った時はこの姿が想像できてなかったでしょうね。たぶん、今もいろんな予算を使って子どもたちを増やそう、楽しませよう、元気にさせよう、なんて掛け声だけはあるけれど、実際は子どもたちの何にも役に立ってないのでしょうね。

平等だから、どこにでも万遍無く、施策を行ないます! なんていう中身のないスローガンみたいなのは聞こえてきそうです。でも、結果は知れています。私たちは、誰も使わない公園を作り、誰も幸せにならない政策とやらに振り回されていそうです。

遊具たちに罪はありません。これを作ろうとした大人たちが、これらをどうするべきか、これから反省しなくてはいけないと思う。作りっぱなしではあまりに遊具たちがかわいそうだ。