唐木順三 電線に歌を歌わせる

大晦日の天気予報によると、今年の元旦は曇り後晴れのはずであった。ところで事実は大雪で、一日中降り続き、当地方にはめずらしく四、五寸もつもった。元旦の午前中に伊豆大島地方に強風注意報が発せられたが、ここはまったくの無風状態であった。

天気予報はあまりあてにならない。科学の最も幼稚な面がここにあるのかしれないが、とにかくまだ科学は明日の天気模様を正確にとらえられないでいる。これは気象学そのものの未発達によるのであろうか、それとも設備や通信網・観測網の不備によるものであろうか。とにかく現在のところ、与えられた資料と科学的計算では、明日、あるいは半日後の天気さえつかみえない。私は自然界、天然界は、今日の科学でつかみえないような、いわゆる不測の変(漱石の言葉)をふくんでいるような気がする。宇宙全体がいきもの、すなわちいのちをもったもので、そこには宇宙秩序もあるかわりに、カオスをふくみ、人智ではいまだつかみえない動きをもっているような気がする。

渋谷の中学に行っている姪が遊びにきての話によれば、今年の書初めに、「原子力発電」という字を課せられたそうだ。ほほう、と私はいったが、なるほどな、えらい時代になったものだな、という気分の外に、書初めの言葉としてはどうも少々ヤボッたいな、もう少し詩的な言葉を選べないのかな、とも思った。まさに原子力時代、宇宙時代の第一年というべきだが、しかし私には言うにいわれぬ不安がある。現代の科学で、十分に宇宙秩序を計算できるのかな、という不安といってよい。月にロケットをうちあげる、月にミサイル基地を設ける、人工惑星をうちあげる、という話を聞くと、科学の進歩に驚きもするが、一方には、はやとんでくれるなという心が動く。性急にただ軍事力を敵に対して誇示するために、全体を総合的に考える暇なしに、天体運行の秩序のなかへ不細工な人工惑星をどんどん打ちあげられては困るではないか、明日の天気予報さえ正確にできないのに、はやまったことをしてくれるな、といいたくなるのである。原子力やロケットを使用する前に、そのプラス・マイナスを十分に、総合的に考えてほしい。地球のみか太陽系までぶちこわすようなことにならないでほしい。人っ子ひとりでもケロイドや白血球欠乏症に悩まいように考えてくれ、といいたくなるのである。

元旦の大雪で、夜の九時に電灯が消えた。どこかの電線が雪の重みできれたのであろう。あわててローソクを探してともした。きたないローソクのゆらめく光りの中で、デンキゴタツも案外不便なものだな、と思った。このごろの電気器具ブームはわが家にまで侵入してきて、釜もコタツも電気になった。湯タンポに変わる電気何とかもはいった。さて便利には違いないが、いったん停電になるとすべての機能がとまる。モーターで水をあげているので、第一に水に困る。この勢いですべてが電化され、電化されつくしたとき、なにかのはずみで大停電が起きたとすれば、世の中は大混乱におちいるであろう。勤評ストや炭労ストとは比較にならないほどの混乱が起るだろう。

この正月におくられた『東電グラフ』をみると、東京湾をめぐって、いたるところに大発電所が建設されつつあることがわかる。本年中に総計49万キロワットを新たに建設するのだという。昭和26年以来の7年間に需要は2倍になった。この需要の増加率は当分はつづくだろうという。それに応えて東京湾だけで将来は300万キロワット以上の火力発電を計画していると書いてある。その写真をみてもいかにも大規模で、国力発電の象徴がここに見られるように感じる。

そういう雄大な写真とメカニズムをみたあとで、同じ雑誌に載せられている次のような文を読んだとき、私は妙な気に襲われた。

「名物のからッ風が、電線に歌を歌わせる。そんな日の東京は、底ぬけの冬ばれ。」

この文体と、もうもうと空を掩う火力発電所の煙とは調和しない。電気ブームとこの文体は調和しない。どこか間が抜けいるのである。

何百万キロワットという巨大なエネルギイを生み出すさまざまなメカニズム、機械や人的権威や人間関係のメカニズムと、さきの文体は調和しない。またこのメカニズムは、十郎の裸電球の下で、家族五人が、冷たい貧しい夕飯を黙って食べている風景や心理とも調和しない。大雪がふればローソクを探しださねばならぬ経験とも調和しない。調和しないままに、7年間に発電量は二倍にふえた。これからもなおふえつづける。

私はさきに書いた「電線に歌を歌わせる」式の文体、古い日本語による発想が、これからは消えてゆくと思うが、さて新しい文体にどれほどの美しさをもたせることができるであろうか。「原子力発電所」と書初めに書かせるようなことからは、新しい文体は起らない。

1月10日にアイゼンハワーの一般教書が発表された。それによると総予算の60パーセントにあたる470億ドルが軍事費で、そのうち70億ドルがミサイル計画に当てられている。日本の総予算のおよそ1.7倍に当たる額が大陸間弾道弾等の兵器、またその研究に費されるわけで、こういう数字をみていると、人間がバカにされていることに気づく。戦争を阻止するための防衛力をつくるのにこれだけの金額が必要だというのだが、ソ連も同様なことをいい、同様な金額を使っていることであろう。こういう天文学的数字が殺人類のために計上されている前では、泣くとか笑うとか、歓ぶとか起るとか悲しむという、最も人間的な心理や感情が、まるで無意味なものにされ、片隅に追いやられてしまう。そして図体の大きいえたいのしれない擬人間が笑うことも泣くこともなく、立ちはだかっているような感じがする。

人間と外界との調和、論理と心理との調和、そういう調和なくしては人間は不幸である。しかしこの不幸は当分は除かれないにちがいない。ただこれを不幸として、すなわちあたりまえの状態ではないとして感じることをもちつづけることが、いまのところ必要である。


唐木順三 「朴の木」(昭和35年発刊)

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