橋本治 失われた決断

「決断力」は「決断能力」の短縮化だろう。しかし「能」の一字が省かれただけで、話はだいぶ違ってくる。「決断能力」なら、「じっくり考えた上での決断」というニュアンスがあるが、「決断力」ということになると、「グダグダ考えずにさっさと決める力」という、瞬間的能力の有無という方向へ行ってしまうような気がする。もっと極端なこと言ってしまえば、「何も考えずに即断できてしまうよう神秘的な力への待望」というようなものが、「決断力」という言葉の裏にはあるような気がする。

「・・・力」という言い方がここ何年かのはやりであるけれど、「これがあれば大丈夫」的なスローガンに近いようなものが通っていくのは、ご時勢というものかもしれない。それくらいみんなが落ち着かなくて、ある種の苛立ちを隠しながら「手っ取り早い解決」を待っているというか、逆説的な話ではあるけれど、「イライラしながら手っ取り早い解決を待っている」というのは、「手っ取り早いか解決策が見つからないでいる」という状況を前提にしたもので、それが見つからないからイライラする・・・・・・だから「手っ取り早い解決策を求める」ということにもなってしまう。つまりは、一巡して矛盾している。

「決断力がない」というのは、個人の資質である以前に、「なににつけても決断することがむずかしい状況」があってのことのような気はする。それで、「なぜなににつけても決断するのがむずかしい状況は生まれてしまったのか?」ということである。それはもちろん、「種々の状況が変わってしまったから」ではあるけれど、状況が変わっても「決断するときには決断する」ということの必要だけは変わらないはずである。私が不思議に思うのは、「決断する時には決断する」という必然が、いつどうやって失われてしまったのかということでもある。だから、「決断力」というものが求められてしまうのかな、とか。

「決断力をもっている」と思われる人に決断してもらえば、楽だ。「あの人に任せた」ですんでしまう。その「決断」が後になって問題を生じさせても、その時はまたその時で「新たなる決断力を持った人」を探して、任せてしまえばいい。この場合の問題は、「決断力をもっている」と思われる人が見当たらなくなってしまうことではあるけれど・・・・・・「それが今だ」というつもりはないけれど。


橋本治 「橋本治の立ち止まり方」

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