永井荷風「彼が十年一日の如く花柳界に出入りする元気のあったのは

「彼が十年一日の如く花柳界に出入する元気のあったのは、つまり花柳界が不正暗黒の巷であることを熟知してゐたからで、されば若し世間が放蕩者を以て忠臣孝子の如く称賛するものであつたなら、彼は邸宅を人手に渡してまでも、其称賛の声を聞かうとはしなかつたであらう。正当な妻女の偽善的虚栄心、公明なる社会の詐欺的活動に対する義憤は、彼をして最初から不正暗黒として知られた他の一方に馳せ赴かしめた唯一の力であつた。つまり彼は真白だと称する壁の上に汚い種々(さまざま)な汚点(しみ)を見出すよりも、投捨てられた襤褸の片(きれ)にも美しい縫取りの残りを発見して喜ぶのだ。正義の宮殿にも往々にして鳥や鼠の糞が落ちてゐると同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と芳しい涙の果実が却(かへっ)て沢山に摘み集められる。」
「濹東綺譚」永井荷風

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