辺見庸「青い花」意識の裂け目から青い花を流れこませる

息子も死んだ。父も死んだ。犬も死んだ。そして・・・という接続詞はなにも接続しないことを承知で、そしてわたしはあるいている。あるいている。ドスドス、キシキシ、ヌタヌタ。人間というのは・・・という切りだしを好まない。だが、ひととは、どのような音にもひびきにも影にも、いったんはすくみ怯えるにしても、いずれは哀しいほどに慣れてしまうものだ。たとえ聞いていても聞かなかったことにするのに慣れ、見ていても見なかったことにするのにも慣れて、こうじれば、見なかった、聞かなかったとさえ記憶したりする。身もこころも外部の条件を反映して、いかようにも変質してしまう。それはたくましい可変能力というより、ひとがひとであるためにあらかじめ負うている病性なのかもしれない。それをして人減というものの「破滅的な習慣」と言ったりするが、ひととはほんらいハメツテキナシュウカンという学名を付されるべき有機毒物である公算も大なのではないか。と、おもったとてどうにもならないことを、とくにこだわるでもなくおもったり、おもうのを中途でやめたりしながら、わたしはあるいている。わるびれずあるいている。ぽろぽろとあるいている。想起―継起―消失―想起―断念ー消失ー想起ー追憶―途絶―流失。記憶は夜の流砂だ。おちこちを白々とかすませる飛砂。わたしはあるいている。ずっとあるいている。わたしはだれでもない。だれでもないわたしは、ふとこの闇に、一輪の弱々しい青いコスモス、青紫のヤグルママギタ、またはクレマチスの花弁がにじむのを見たいとおもう。意識の裂け目から青い花を流れこませる。見ようとして見えないもの。どうしても発音不能のもの。なんとかかたろうとして、ついにかたりえないもの。触ろうとして、いっかな触りえないもの。なんども理解しようとこころみて、なお理解のかなわないもの・・・。


辺見庸 「青い花」

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