辺見庸「青い花」〈おもう〉こととは
<おもう>こととは、<おもうふりをする>のとほとんど同義であったし、まったく同様に<かんがえる>とは<かんがえるふりをする>ことであった。<悲しむ>だって、たいがいは<悲しむふりをする>のとおなじであった。また、<過去>とはさまざまな<じじつ>としてあるのでなく、現時点での<想起>をきっかけとするある種のごく単純な<創作>かじじつの<ねつ造>であるとみなされていた。怖ろしいことには(とさえもうおもわなくなったけれども)、かつて「転義」とされていたものがいつのまにか「本義」になってしまった。ひとびとはそのように無意識に思考を制御したりすりかえたりすることで、過剰に悲しんだり怒ったりすることを避けていたのだともいえる。じっさいには本義でも転義でも提喩でも、もうどうでもよくなっていたのだ。
辺見庸 「青い花」
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