宗教の事件 69 吉本隆明・辺見庸「夜と女と毛沢東」
●オウム批判のやり方は「鬼畜米英」と同じ
辺見 本論と関係ないかもしれないですけど、僕は地下鉄サリン事件の現場にいたんです。まだ救急車が来る前ですよ。僕は夜派ですから社で完徹で仕事をして、その帰りに通りかかったんです。
吉本 あっ、本当ですか。
辺見 地下鉄の駅のところで女性がしゃがんでいるんです。大都会で、女性が二人ぐらいしゃがんで、気持ち悪そうな様子をしていたって誰も振り向きもしないですから、ジョギングしている奴なんか平気で通り過ぎていくわけです。そうしたら駅員が一人抱えて上がってくるんです。あれっ、どうしたんだろう、と思って駅員に聞いたら、「今日はなにかお客さん、みんな気持ち悪がっちゃって」というんです。「下の方はどうなっているんですか」と問うと、「まだいっぱいいますよ」なんて事もなげに言うんですよ。
僕は、じゃあそれはちょっと社会部にも連絡しておこうと思いまして地下へ入って行ったら、構内の壁にみんなこういうふうになって脚を投げ出して一列にへたり込んでいるんです。顔が苦笑いしているみたいなんです。頬とかが弛緩してしまうんですね。でも、圧倒的多数の乗客たちはその人間たちを跨ぐようにして改札口を目指している。不思議な光景だったですね。なんと言いますか、我々は、意味をですね、誰かに与えてもらわないと、自分では考えない。僕も考えていない。それで、一人外国人だったんですけど、彼を担ぎ上げて、ネクタイを緩めてやった。でも顔が苦笑いしているふうだから僕にもあんまり切迫感がないんですね。
そもそも、僕が知っている事件現場というのは、弾痕であり、血の海ですよね。それから、呻き声、叫び声でしょう。そういうのが事件現場、というような常識で凝り固まっていますから。でも、神谷町の現場じゃ、よく見れば日常と非日常が同居しているわけです。叫びもうめき声もなくて静かなんですよ。
サリンのサの字もあの段階では念頭にないんです。警視庁の捜査一課長がサリンの可能性をしてきたのは午前11時ですから。僕がそのとき何にいちばん腹が立ったかと言うと、実のところ、殺人者に対してではないんです。救急車がいつになっても来ないから僕が被害者をこう介抱しているでしょう。「通訳をしてくれ」を救急隊員に言われたから、苦しがっている外国人にいいかげんな通訳もしていた。「救急車が来るから、もう少し頑張ってくれ」とか何とか言って、体をさすっている。そうしたら野次馬の女が僕を怒鳴るんです、「あんた、外国人が気持ち悪がっているのに、煙草を吸いながら話しかけちゃダメじゃないの」って。あの現場で僕が一番憎んだのは、僕をそう非難した中年のおばさんだったですね。僕はこの手の「良識」が死ぬほどきらいなんです。ファック・ユーですね。
死はですね、大したいわれもなく突然に来るものだ、と僕は思っているんです。死自体を加害の結果とは心の奥のところでは考えちゃいないんですね。だから、視えざる加害者を怨むなんて、現場じゃ全然なかったです。ああ、来たなって感じ。
それで家へ帰ってテレビをつけますでしょう。僕がいた現場が映っているわけです。テレビを見ますと、私は現場にいたにもかかわらず、僕はそこにいなかった、という感じなんです。つまりテレビというのは、ジョギングしている人間だとか、通勤客が被害者を押し退けたり跨いで通るようなところは一切こそげ落としてしまう。ですから、人が苦しんでいるシーンだけを映し、それにおどろおどろしい音楽とパトカーの音を被せる、空のヘリコプターまで映す……ああ、そうか、そうか、というふうに思ったんですね。われわれと世界の間にはフィルターがかかっているんだな、と。
吉本 ああ、なるほどね。
辺見 大半の人間は、ああいうときは誰も助けないですよ。一番たくさんに来たのは救急車じゃなくてテレビの中継車。報道車両なんですよ。記者連中は被害者を病院に運ぶとかすればいいものを。まずそうはしない。背中をさすりもしない。逆に「不審者を見なかったか」と詰問ですよ。同業者で、僕もそういうことをずうっとやってきた人間なんですけれども、ここには悪意が実はない。生真面目さのみあるんです。犯人も記者も組織を裏切らないんですね。だから、指示通り犯人は毒物を撒き、記者は人を助けずに、指示通り取材のみをする。それが恐い。犯人も記者も組織を裏切った方が、いいんです。しかも、現場の風景が額面通り報道されるんじゃなくて、あらかじめ構図をつくったものに整合するものしかとらない。不整合なものは全部落としてゆく。そしてそれを全部信じていく。
吉本 そうですね、それがどんどん極端化して増幅していくわけですよね。
辺見 あの辺は金融機関が軒を並べているから、早出という人が多いんですね。人が早朝に地下鉄構内で倒れているわけでしょう。吐瀉物もあるわけです。それを全く無感動で見て見ぬ振りをしますね。これはもう革命なんかは起きないわな、という感じはしますよね。善意も悪意も存在していないんです。そういう、いわゆる市民が、事後に安全な場所で、オウムを怨み、極刑にせよと叫ぶわけですよ。
それが今度はテレビになって、彼らがつくった構想の中だけでの現場が映し出されるわけでしょう。その後のワイドショーも、お涙頂戴の企画で何度もくりかえす。水をさすようなことは一切言っちゃいけない、言わせない雰囲気があります。著しくジャーナリズムとメディアの視力が落ちている。作家もそうですね。弱視ですね。弱視状態ですよ。僕はこの仕事を二十五年間やってきていますが、こんなに力の衰えた、視力の衰えたジャーナリズムは見たことがないです。
吉本 ある種の強制というのは実感しますね。つまり、夜や闇の陰影をも否定する昼間的発想が報道にもあるということですね。
辺見 僕は前に、「阪神大震災で報道各社があんなにヘリを飛ばせるんだったら、ヘリからパンでも何でも撒けばよかったんじゃないか」と発言したんですよ。そうしたら批判されまして、「ジャーナリズムの使命をどういうふうに思っているんだ」というわけですよ。
吉本 ものが言いにくいですよね。いや、これは本当に・・・・・・。
辺見 本質的に誤解だと思うんですけど、吉本さんの場合は、近年は体制派に大いに歓迎されるような思想家として受け止められているにもかかわらず、あの一連の対談で体制派にあれほどヒステリックにやられるとは思わなかったですね。
吉本 ああ、あれはびっくりしましたね。どう言ったらいいんでしょう。つまり言論というのは自由じゃないんですね。自分が悪いんでしょうけども、本当に思い切ったことを言おうとすると、すでにそれは正義じゃないんだという雰囲気がこしらえられているものだから、誤解の余地なき表現をしない限りは必ずやられてしまう、という感じを持ちましたね。
辺見 ええ、戦後50年を経て、言論はいよいよ窮屈になっていると思います。僕はあの対談の中では、吉本さんのおっしゃったことはちゃんと区別されていると思います。「結果的には犯罪については私は完全に否定する」「それと違う自分という人間の一個にして二重の観点というのを言っているのである」と、はっきりしているわけですね。(注)
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(注)
「僕の中では、一般市民として大衆の原像を繰り込んで行こうという考え方の自分は、オウムの犯罪を根底的に否定します。特にサリンによる無差別殺戮、無関係な人の殺戮というのはまったく肯定すべき余地がない。まったく否定します。大衆の原像というのを考える限りは、そうなるわけです。ところが、僕の中で、否定だけで終わるかといったら、そうではないです。本来、超越的な性格を持っている宗教の問題、理念の問題、思想の問題が僕の中にあります。その問題を僕が重点にすれば、「麻原彰晃、つまりオウム真理教というのは、そんなに否定すべき殺人集団ではないよ。この人は宗教家としては現存する世界では有数の人だよ」という評価になると思います。そうすると、僕の中で二重性をはっきりさせなくてはいけないでしょう。なぜ、お前の中に二重性ができたのか、分離してきたのかをですね。二重性の解決が、僕にとって、オウム真理教の一番の課題なんです。」(産経新聞・1995年9月5日夕刊「宗教・こころ 吉本隆明氏に聞く」より)
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人物論と犯罪に対する考え方は全く別なわけで、人を殺したらその人間の人物論をやっちゃいかん、興味を持っちゃいかん、その人間をすべて否定しろというのは乱暴だと思います。
吉本 ええ、そっちのほうがずうっと乱暴な話だと思うんですけどね。
辺見 被害者だけでなく、加害者側から見ないと事件の奥行きはさっぱりわからないものです。すべて狂気で片づけるくらい簡単なことはない。ですから、特異の犯罪であり、特異な現象であればあるほど、加害者たちの心のうちを探っていくという作業が一番必要なんだけれども、戦後50年の中でこの時期、僕はその作業が一番ないなと思うんです。
吉本 そうですよね、そういう意味合いでは、もうちょっと末期的な症状じゃないかな、という感じがしてしょうがないです。
辺見 ですからこの現象、メディア自身がファナティックなんです。ひじょうにファナティックで一面化している。ショートしていると思う。僕が言いたいのは、「だからこそ、若い人たちがオウムへ行くんだよ。発生原因はオウム批判をしているきみたち自身の足元にあるんだぜ」ってことです。
極端に言えば、強引に勧誘したり、お布施を巻き上げたり、暴力をふるったり、人を拉致監禁したり、殺したししなきゃ、つまり犯罪を構成するのでなければ、何をしたって、何言ったっていいはずなんですよ。ただ吉本さんが言うように、組織が人倫を越えなければならない事態というのもある、と思うんです。そういうことがありうるという初歩の常識さえ、今は無視されているという気がしてならない。
ジャーナリズムのオウム批判はほとんど「鬼畜米英」というスローガンを掲げて非国民狩りをした、戦前のジャーナリズムと同じじゃないですか。一面的で、他の異論を抹殺していくところなんかそっくり。オウムは人間の底暗さ、闇の深さ、人間の組織・集団というもののメカニズムなどを探る類稀なテーマである筈です。モノを書いている人だったら敗北感すら感じるでしょう。あれ以上のフィクションは作れないんだもの。
吉本 たしかにあれ以上のフィクションは作れない。
(つづく)
吉本隆明・辺見庸 「夜と女と毛沢東」
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