四方田犬彦「人、中年に到る」無用

『荘子』はわたしが二十歳代から親しんできた書物だった。その初めの方に、次のような話がある。

あるところに巨大な樹木が聳えたっている。太い幹は曲がり、いくつにも分かれている。枝という枝が繁茂しているため、その全体の姿を推し量ることが難しい。どうしてこのように不細工な樹があるのだと、ある人が憤慨して尋ねる。何の役にも立たないからだ。だが、もしこの樹が大方の樹木と同じように整然と幹を直立させ、不要な枝葉を持っていなかったとすれば、直ちに材木として切断され、跡を留めていなかったであろう。現に周囲の樹木はそのようであったため、すべて伐り取られてしまった。ただこの樹木だけが醜く捻じ曲がっていたため、誰も手をつけようとせず、そのまま放置しておいた。したがって長い歳月が経過しても、それが生き延びることができたのはもっぱら無用という用を体現していたからなのだ。

私には無為とは、この偉大なる無用さに近づくただ一つの方法ではないかという気がする。なまじ世間で有用な人材として登用されたりすると用の世界で磨滅してしまって、この樹木のような巨大さに到達できないで終わるものだ。私は中学高校時代から周囲に少なからぬ秀才をみていたが、彼らの何人かはさながら迷いなく天をめざす育ちのよい樹木のように生き、そして力尽きて倒れていった。過労で死んだ者もいれば、自殺した者もいた。そのたびにわたしはこの曲がりくねった巨樹のことを想起し、その足元で何にも煩わされることなく午睡ができればと空想するのだった。


四方田犬彦 「人、中年に到る」

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