ブーアスティン「幻影の時代」最頻値(モード)

われわれは、イメジと理想との関係についての伝統的な考え方をひっくり返した。イメジが理想の単なる表示を考えるようになった。われわれの理想的な父とは、我々自身の父のイメジ・・・実際には父はどのようであったか、どのようでなかったか・・・をわれわれが投影させたものにすぎないとわれわれは教えられた。われわれはそこから、理想の概念自体が抽象であるとして、不信の念を抱くようになった。すべての人間がそれに向かって到達しようと努力するようになった。すべての人間がそれに向かって到達しようと努力することのできる完全性の基準を、すべてわれわれは信じなくなったのである。

理想というものは、かつては歴史の研究と叙述、また社会の研究に形式を与えていた。アメリカの歴史学者は、かつては理想に没頭して取り組んだ。フランシス・バークマンは、アメリカの森林の中で、植民地帝国を求めてフランスとイギリス人が戦った時のプロテスタンティズムの理想と、カトリシズムの理想との衝突をみごとに描いた。ジョージ・バンクロフトは、独立と憲法のための戦いが、自由、民主主義、新しい国家という理想のための戦いであると見てとった。他の社会研究家たちは、平等とか平和とか正義とかの他の理想に注目した。しかし今世紀、おそらくほかのどこよりもアメリカでは、新しい社会科学は数々の統計数字を収集し、これを標準とか、最新値とか、中位数とか、平均とかで解釈する。おびただしい事実の集積と数学の社会統計への適用は、新しい一般化の様式を生み出した。こうしたこともまた、理想に対する、「事実」に基づいたより深い不信を育てたのである。

社会科学者は、かつて人文学者、歴史学者を魅了したユニークな出来事には、もはや関心の焦点を合わせない。彼らはそのかわりに自分でイメジを作り上げる。そのことはやがて、一般のアメリカ人が自分たち自身について考える考え方を支配するにいたった、アメリカ人は社会科学が作り出した辺境とか経済的階級とか、社会的地位とかのイメジに自分自身を適合させようと努めるにいたった。社会科学者はこうしたイメジを最頻値(モード)の式から作り上げる。統計学でいう「モード」とは、もっとも度数の多いタイプあるいは形である。歴史学者は「辺境地開拓者」(ターナーの概念)、「財産所有者」(ピッドの概念)、地位を奪われた進歩的改革主義者(ホフスタッターの概念)等を作り上げた。そして社会科学者は、農民、郊外地の主婦(≪タイム≫の表紙に載るような英雄的な姿)、科学者、小企業者(ミドルタウンに住んでいるような)、あるいは下級管理職を描くことができた。人文科学者的歴史学者は、個性的な肖像画を描こうと努めた。新しい社会科学的歴史学者は、集団的な価値を作り出した。さまざまの普及の手段を通じて、こうした戯画はイメジとなり、個人個人はこれに適合するよう期待された(また、適合させられることもあった)。

(中略)「最頻値(モード)」というような、あまりにも単純化された社会科学的概念は、イメジづくりに役立つから人気があるのである。「最頻値(モード)」というような概念は非常に魅力的であることは、標準とか平均という概念が、われわれの生活で大きな力を持っていることからも明らかであるが、このような概念のおかげで、われわれは自分自身を模索するようになった。会社の中堅幹部、あるいはその妻というものは、どのようにあるべきかを発見するのにわれわれは努力した。おかげでわれわれはまさにあるべきようになることができる。ところがそれは、初めからわれわれがそうであったあり方にほかならないということになる。理想を単純に強調していた場合には、最悪の場合でも、完全性の抽象的な基準の非現実的な追及を招いたにすぎないが、最頻値やイメジが強調されると、われわれは自分自身の幻影を追い求めようという誘惑にかられる。


D.J.ブーアスティン 「幻影(イメジ)の時代―マスコミが製造する事実」

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