宗教の事件 45 吉本隆明「超20世紀論」

●中沢新一の『虹の理論』がオウム真理教の経典になった理由

・・・・・・宗教学者の中沢新一が書いた本『虹の理論』(現在、絶版)はオウム真理教の信者によく読まれ、教典的な扱いをされていたようですが、その理由をどうお考えですか?

吉本 中沢新一は、日本の仏教思想家としては非常に特異な人だと思います。日本の仏教は、これまでは、すべて中国経由でした。インドから中国に仏教が渡り、日本に伝わってきたのは漢文化された中国系の仏教です。
漢文化された中国系の仏教というのは、へんに荘厳で、いかにも高級な宗教であるかのような装いをしていますが、インドで生まれた原始仏教はそうでもないんです。つまらないことも一杯書いてあります。

中沢新一は、中国経由ではないチベットから直接、初めて日本にもってきて、仏教の論理をつくってみせたんです。『虹の理論』というのは、そういう本で、いいものです。

中国経由の仏教だと、地獄には怖い閻魔様がいて、悪いことをしたやつは槍で突つかれたり、舌を抜かれたりする、といったふうに古臭い匂いがついていますが、中沢新一の『虹の理論』には、そういう古臭い匂いは一切ありません。非常にさっぱりとした近代的な理論になっています。

また『虹の理論』で、僕が啓発された特徴的な点は、仏教でいう無意識とは、フロイトがいう無意識よりも、もっと多層で、奥があるというか、深いものとしてとらえられていて、無意識の向こうに、さらにちょっと違う無意識がある、無意識には段階がある、ということを述べている点です。

フロイトの場合は、意識と無意識の中間に「前意識」というものがあって、その前意識が意識のほうに出てきたり、無意識のほうに戻ったりするんだ、という解釈をします。そして、それを、自分の精神分析の原点にしています。つまり、フロイトは無意識に段階があるとは考えていないんです。

そうじゃなく、無意識には段階があるんだということをはっきり書いたのは、中沢新一の『虹の理論』と麻原彰晃の『生死を超える』だけです。

修行した禅系統の坊さんたちは、中沢新一や麻原彰晃が書いているようなことを、たぶん体験的に知っているんじゃないかと思いますが、坊さんたちは知っていても、いわないんですよ。それを公開しちゃうと、「なんだ、仏教なんか大したことねえじゃないか」といわれかねないからです。秘密にしているんだと思います。

麻原は『生死を超える」の中で、おヘソのところや下腹部に精神を集中すると、こういう光の色のイメージが現れる、もっと上の喉元のほうに精神を集中すると、違う光の色が現れるということを、とても明瞭に書いています。精神を集中させる身体の場所の違いによって、現れてくる無意識に、いろいろな段階があるということを書いているわけです。


●「前世」や「来世」は、胎児期の無意識の反映である

・・・・・・オウム真理教では、「修行レベルによって、得られるステージの高さが違う」ということを、盛んにいっていました。そのステージの高さは、自由にコントロールできる無意識の世界の深さに対応しているとすれば、中沢新一の『虹の理論』は、まさにその体験を理論的に保証してくれるものだということになりますね?

吉本 そうです。西洋近代をちゃんと通過しながら、仏教を理論的に理解できるものにしているという点で、中沢新一の『虹の理論』がオウム真理教の信者たちに頼りにされたというのは、とてもよくわかりますね。

でも、僕は別に宗教学者や宗教家じゃありませんから、中沢新一の『虹の理論』や麻原彰晃の『生死を超える』を読んで思ったことは、仏教が『前世』とか、『来世』とかいっているものは、実は無意識の段階と対応させることができるんじゃないか、ということです。

そして、この無意識の段階というものは、母親の体内にいるときのたとえば二か月目、三か月目とかに対応したものじゃないか、と僕は考えています。“胎児の何か月目のときには、こういう特徴的な無意識が現れる”ということがあって、それが、仏教でいう前世のイメージを形成したり、来世のイメージを形成したりすることになるんじゃないかと思うんです。つまり、仏教でいう前世や来世は、本当は実在するものではなく、胎児のときに段階的に形成される無意識の反映なのではないか、ということです。それが明らかになれば、宗教はおのずとなくなって、「無意識の心理学」だけあればいい、ということになるかもしれません。


(つづく)


吉本隆明 「超20世紀論」

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