唐木順三 玄旨に向かって

私は筑摩書房の講座『現代倫理』第七巻所蔵の、ハイデッガーの『原始時代における人間の土着性』というエッセイのことを実は考えているのである。

ハイデッガーは、現代が技術の時代・原始エネルギイの時代であることを認めている。その必然性を肯定しながら、それへの憂慮をここで語っている。技術やエネルギイを生みだした思惟は、計算し、打算し、計画する思惟である。しかし人間はそういう思惟の外に、沈思、省察する思惟を持っている。沈思する思惟は早急に結果を予想はしない。自分で緒材料をくみたて構成したりはしない。それはあたかも百姓が、蒔かれた種が芽をだし成育するのを見護りつつ待つように時機到るのを待っている。自分の魂の奥底から芽生え打算する思惟は単に頭脳の働きであるのに対して、沈思し省察する思惟は、魂の故郷からのもの、心の土に根を張ったものである。ハイデッガーはへーゲルの次の言葉を弾いている。「私たちは草木である。そのことをわたしたちは認めようと、認めまいと、そんなことに関わらず、天空に花を咲かせる実を結びうるためには、根をもって土中から生い立たねばならない草木である」

ところで、さきにも書いたように、技術時代は、人間からこの植物性、土着性を奪ってしまった。われわれはもはや特定の郷土を必要としない。故郷喪失は現代の特徴といってよい。それは認めざるを得ない現実である。それを認めながら、それに足をさらわれずに生きるためにはどうしたらよいか。ハイデッガーは「玄旨(げんし)に向かって開け」という含蓄のあることばをここでもちだしてくる。ここに玄旨と訳されているGeheimnisということばは、普通には「秘密」という意味である。我々の最も近くにありながら、われわれにわからないもの、それがいっさいの根本でありながら、正体のあらわでないもの、という意味であろう。それはやがて、我々自身の魂の奥底にあるものに通じてくる。この玄旨がやがてそこから新しいものの創られ、育てられてゆく根源であるというのである。こここそ魂のふるさとであり、そこで芽生え、そこで育ち、そこで成熟するところだというわけである。技術時代は世界のすみずみまで一様化し、その郷土性・土着性を奪ってゆくが、この魂の土着性まで奪うことはできない。我々は原始時代なればこそ一層に「玄旨(げんし)に向かって開け」といわざるをえないというのである。ここは科学技術の世界とは別な世界である。


唐木順三 「朴の木」(昭和35年発刊)

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