唐木順三 対立と絶対

あげればきりがない。青少年の犯罪の急増、中学生の自殺の増加、小松川の女学生殺しの少年、どこをみても、どこか狂っている。社会状態が狂ってばかりではない。人間の心理も狂っている。人間関係も狂っている。ではおまえ自身はどうなのか、と聞かれれば、やはりどこか狂っていると、実は正直にいわざるをえない。どこか狂っている。世の中全体が狂っている。

(中略)

一体どうすればよいのか。この頃の狂いのもとは、対立からきているものが多い。二つの強国が対立して、互いに他を信用しない。二つの政党が対立していがみ合っている。階級が対立し、派閥が対立し、政治と文学が対立し、教委と教員が対立し、親と子が対立し、対立のありようのないところで対立しあう。どこをみても対立ばかり。対立が狂いの根本だと思うとき、一挙にこの対立を除去すればよいという思想と行動がかならず出てくる。絶対者の確立への動きだ。英雄への待望だ。ナチスやファッショがやったことはただ一度とは限らない。誤りなき神のごときヒットラーという考え、あらひとがみという考え、それへの万民の服従という考えが出てくる。この考えは現在の場合、対立よりはいっそうにあぶない。アイゼンハワーやフルシチョフが絶対者として世界に君臨しようとのりだしたときの危険は、もはや危険など生ぬるいものではない。性急に対立を一元化することはあぶない以上である。では対立をそのままにしておいてよいか。そうすれば狂いはさらに激しくなろう。

民主主義というのは、元来対立をそのまま残しながら、対立をさらに相対化そうとする人間の智慧であった。絶対者・絶対命令者のでることを防ぎながら、対立のもたらす狂いを、除こうとする手段であった。相対的な命令者を多数決によって選び、一時の力をそれに委ねて、その力の使い方を監視するという方法である。批判の自由と思惟の自由はそのミニマムな条件である。自身も多少の狂いを自覚しながら、狂いを狂いとして批判することが、いまの当面の課題である。しかしさらに一層のところには、相対の相対性を自覚する根柢の無の方向があるわけだが。


唐木順三 「朴の木」(昭和35年発刊)

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